雑
年が明けて間もない1月5日に亡くなっていた。持っていたCDを思い返してみる。 管弦楽を1枚、カメラータ・トウキョウの安いやつ1枚、合唱が3枚、こんにゃく座関係で3枚。ギターのCDに協奏曲が1曲入っていた。『木のうた・鳥のうた』のCDは人に貸…
『黄色い鳥のいる風景』や『愛』は、この世に愛する対象があることによって過去や世界が本当のものになる、ということを言っていると思う。これは5分前仮説や胡蝶の夢みたいなものへの回答的なものでもある。 逆に、愛がなければ世界を偽りとすることもでき…
『詩篇』の歌詞は、宗左近の詩から大幅に組み替えられている。曲は一続きに演奏されるけれども、歌詞の各部分には原詩のタイトルの他に「はじめのはじめに」や「はじめのないはじめ」等々といった構成を示す言葉が付されている。歌詞を見ているとその意味や…
『詩篇』を何度か聴いている。聴くのが苦しいことはないが、どこか近づきづらい。『レクイエム』よりも難しく、三部作の文脈としてイメージしてきたことからも当然ながらはみ出している。 むしろ「三部作」にするなどとは思っていなかったはずだと思う。三善…
『虹とリンゴ』『四季に』『交聲詩曲 波』っていうだけで嬉しすぎる選曲。その他も初期から近作まで。 解説は全体に軽め。『やさしさは愛じゃない』の「じゃない」の歌詞が女声にしかないという話が書いてあって興味深いが、これはどこかのブログで読んだこ…
樹の会の「合唱音楽の夕べ Vol.3 三善 晃ふたたび」があるなと思い、当日券に賭けてオペラシティに行ったところ、延期することに決めた、ということだった。 プログラムは当然出来上がっているし、払い戻しもしないといけないし、参加している団体だったらと…
少しずつ聴いている。別に似ているわけでもないけれど、どちらもきれいに音を鳴らそうとする。三善晃は比べるとすぐにぐしゃっと鳴らしたくなるようなのが面白い。
『鳥のために』の1曲目、『手紙』で、「私の言葉の片鱗を唱えるでしょう」と歌うところがある。そこの男声が、「片鱗を唱えるのだ」となっていて、「のだ」はねーよ、と思ったものだった。 「それはない」と思うような歌詞の扱いというと思い出すものが幾つ…
iPodで歩きながら音楽を聴いていると普段とはだいぶ感覚が違う。合唱曲だと歌うときの感覚が妙に動きに関わってくるようだ。
集めているつもりもないのに6枚くらいある。
合唱を聴いて感動することについて、多少の不安と不信がある。割と安易な手管でどうにかなってしまうのではないかと。 手っ取り早くは、小林秀雄(『落葉松』の)の「コトバの働きを歌いなさい」という方針でやれば格好はつく。もっと手を抜くなら、これとい…
新実徳英の多くの曲に対して、計算で作ったような感じと身も蓋もない割り切りが感じられて、いかにも工学部出身という印象を持っている。『白いうた 青いうた』について、100曲を目標と言っていたが、旋法とリズムパターンから組み合わせ論的に言っても余…
梅雨が明けた後のほんの数日だけ、夏が始まったことに気分を良くしていた。その後はもう夏が重いというか、夏の終わりに向かう途中のような気分になってしまった。(夏至は6月なのだから、夏が始まったときにはもう日が短くなりだしているわけだ) こうなる…
林間学校で歌った『夏の思い出』のことを思い出した。尾瀬じゃないっての。 あるいは合唱部で参加した合唱祭。何で札幌オリンピック? 別の合唱祭で『筑後川』。悪いとは言わないが。 地元の売りがない所は大変だ。
終わってしまった。日々の支えが一個なくなってしまったように感じる。
メキシコは結構好きなのだが、前の大会のメキシコはちょっと時代から置いて行かれた感じがした。今回はちゃんと時代に追いついたように思うし、ちゃんとメキシコのサッカーだ。勝ち残ってほしい。 メッシをまともに見たのは初めて。あのドリブルなんで止まら…
池辺晋一郎が『ブラームスの音符たち』の中で、どんな演奏を聴いても満足できず、自分の中で思い浮かべる演奏が最高に思える場合がある、ということを書いていた。(たしかヴァイオリンソナタの話だった) 自分はどうか、と思うと、『交聲詩 海』と『その日―…
三善は合唱とピアノの組み合わせを成り立たせるために、合唱の魅力の一部とピアノの魅力の一部を抑えているように感じる。それは曲中の合唱だけの部分やピアノだけの部分も含む。 多分他の方法はなくて、他の作曲家もいろいろ苦労しているのだろうと思う。萩…
「合唱とピアノは合わない」という話はときどきある。萩原英彦はCDの解説で、合唱とピアノの組み合わせについて「ふたたび立ち戻る事はない」と書いた。『白い木馬』では、恐ろしく緊迫したピアノの前奏の後に合唱が入ると、ちょっと滑稽な感じに聞こえて…
また三善の『レクイエム』を聴いている。 楽器と言葉のそれぞれが存在感を持ち、それを統御するような視点をもたない、多頭の怪物のような曲だ。これに比べると三善の他のオーケストラ作品はすっきりしたものだと思う。
夏の終わりが近くなると『沈黙の名』を聴かないといけないような気分になるのだが、「夏よ 今年も」というわけでむしろ夏の初めの歌なはずで、もともと季節感がずれているのだ。 『麦藁帽子』もなぜか春の曲のような気がしていたり、何か感覚が狂っているの…
日本伝統文化振興財団から、三善晃の四部作のCDが出る。東京交響楽団と大阪フィルハーモニー交響楽団の2種類の音源を2枚組で、というちょっと変わった形らしい。
『響紋』の、かごめかごめに由来するところや『レクイエム』から引き継いでいる音型などを調べ上げればいいわけだが、ぐうたらなのでやらない。 やらないで書いてしまうのだが、『レクイエム』から音を引き継いでいることでオーケストラは「告発する死者」の…
三善が弦楽四重奏曲第一番の解説で ソナタに精神なんかありはしない。あるのは形式だけだ。そして形式は精神の形をしている。精神はそれを、アプリオリに承認している。芸術の形式と、それを完成した人間たちのあいだには、そのような自明な関係があった。 …
『響紋』のことだが、こんなことを言ってみても空しい。というのは、たしか作曲者もこんな風に言っていたはず。 でも、違うんじゃないか、三善も「そう思うならそれでもいい」というだけのつもりだったんじゃないか、と思う。 しばらく『響紋』について思っ…
『彩夢』には、死に向かって飛び込みかねない強烈な衝動のようなものを感じる。で、『五つの詩』は、その衝動のまま死んでしまうものだと思っていたら生き延びてしまった、というところから書かれているように思う。 これが、「かくれんぼの鬼とかれざるまま…
「鬼気迫る度評価」みたいになってしまうのもほどほどに、と思うようになった。
かっこわるい、というか、柄でないな。
『レクイエム』から『詩篇』までにずいぶん年数がかかった、と思ったことがあったが、このように見るのは間違いで、三善晃は多分『レクイエム』を三部作の第一曲として作曲した訳ではない。この一曲、という思いをもっていたはず。『レクイエム』は死者から…
『海鵜』や『エトピリカ』(『海鳥の詩』)を歌ったことがあった。『海鳥の詩』と『海の詩』は高校生のころに繰り返し聴いたが、合唱以外の曲はまったく接することがなかった。 邦楽のイメージがあったが、『高雅な猫のための組曲』なんて曲を書いていて、い…