「感性はいつも、馴れ合いそうで危険だった」と「共犯の巧みな結託を怖れ」はおおよそ同じ意味だろう。「看視するもの」が、「馴れ合い」「共犯」の対象なのか、それとも自分の「馴れ合い」「共犯」を「看視するもの」ということか、上手く読み取れない。
「その日の不充足だけが糧であるようにはからった」、結果が見通せる選択を排除する、ということだろうか。予期しないことだけが残されることになるのだから、「定式をもった一つの全体が形成されるようには、日々の作業を営めなかった」となるのだろう。「解放される時間」は、先に出てきた「背徳の時」を受けていると取れる。
この後に、よく知られた「ソナタに精神なんかありはしない」が引用される。ここで言うのは、「楽器たちが生むはずの音」がソナタの先にはない、ということだろう。「かつて、死も実質だった。いまは、それも形骸となった。」の「形骸」に「形式」が対応する。ここでの「死」を、以前は自殺しようとした話と結び付けて考えていたが、むしろ「十代の終わり」とつなげる方が適切と思うようになった。通じて、形式が「逸脱した愛」に応えないことを言っており、そのために「愛は、予感の小昏みにだけ、音をたしかめるようになった。」となる。
楽器たちが生む「はずの」音、という言い方には、実際には生まれない、という含みがある。それが「いま聴こえず、いま見えないもの」と言い換えられ、『白く』についての文章につながる。
左川ちかの詩に、不思議な絶望がある。失った声、向こう側の音、見えない花、そして、もう近くに居ない夏。
また、「うごかない指」とも結び付けられる(指の動かない事情については知らない。演奏会『地球の詩』に寄せた文章には右腕が動かなくなった話が書かれている)。つまり、「指が動けば鳴らせるはずの音」も「いま聴こえないもの」であり、さらにはそれが「いま聴こえないもの」であるために指が「うごかないでいる」としている。そしておそらく、「指が動けば鳴らせるはずの音」を鳴らせないために、その音を鳴らした先を見通すことができない。これはまた「定式をもった一つの全体が形成されるようには、日々の作業を営めなかった」へと翻る。「うごかない指」の言及自体については、一種の比喩または例示のようなもので、「『精神の形』をなぞる」ための、「指が動かないから鳴らせない」というのに近いほどの「いま聴こえないもの」の実感、という事だろうと思う。