サントリーホール開館40周年記念「時を編む響」

2026年8月27日(木) 18:30開演 サントリーホール大ホール

[第1部]
カミーユ・ぺパン:弦楽四重奏のための『シルヴァカーヌの水の葉』(2019)
 ヴァイオリン:石上真由子/小林壱成
 ヴィオラ:三国レイチェル由依
 チェロ:下島万乃

池田亮司:9本の弦楽器のための『op. 1』 (2000~01)
 ヴァイオリン:石上真由子/小林壱成/土岐祐奈/森岡聡
 ヴィオラ:三国レイチェル由依/戸原直
 チェロ:下島万乃/柴田花音
 コントラバス:長坂美玖

[第2部]
三善晃:ソプラノとオーケストラのための『決闘(Duel)』 (1964)
 ソプラノ:砂田愛梨

武満徹:ピアノとオーケストラのための『リヴァラン』 (1984)
 ピアノ:小林愛実

[第3部]
ショーン・シェパード:管弦楽のための『表現抽象主義』(2017)

トーマス・アデス:ヴァイオリンとオーケストラのための『Air』 ~シベリウスへのオマージュ (2021~22)
 ヴァイオリン:成田達輝

指揮:沼尻竜典
東京交響楽団

 

平日にこのボリュームのコンサートをというのは無理があり、1曲目は聴くことが出来なかった。

全般的に調性寄りの作品だったのだが、本気で調性音楽をやるなら商業方面と対峙する必要があるはずで、基本的には中途半端なごまかしという気はした。

『op. 1』、今どき高音のピアニッシモの緊張感といわれてもと思ったが四半世紀前の作品ならばそれもありか。

『表現抽象主義』の第1楽章、妙にフカフカした音が続くのは少し面白かった。4楽章ありながらもそれほど長くなく、このあたりから帰宅時間が気になりだしたのでありがたかった。

その点では、『Air』には参った。時々驚くような展開や響きが現れるのでゆっくり聴ける時であればよかったのだが、延々同じような展開が続くのでいっそ舞台に飛び乗って指揮者と独奏を諸共になぎ倒してやりたい、という気分になった。

武満の時点ではそこまで焦ってはいなかったので普通に聴くことができた。武満徹についてはあまり聴いてきていなかったので今回の作品も知らなかったが、響きの美しさは印象に残った。対談集『創造の周辺』で三善晃が「良いコック」と言っていたことを思い出した。

最大の目当てだった『決闘』については別に書くことにする。

最近聴いた2つのコンサート

東京都交響楽団 第1049回定期演奏会Aシリーズ

2026年8月8日(土) 14:00開演 東京芸術劇場コンサートホール

指揮/尾高忠明  ピアノ/北村朋幹

  • 三善 晃:オーケストラのための《ノエシス》(1978) 
  • 松村禎三:ピアノ協奏曲第2番(1978)
  • エルガー:エニグマ変奏曲op.36

3曲ともコンサートで聴くのは初めてだった。演奏は全体的に精度が高く自発性もあり、良いものだったと思う。『ノエシス』はまだ馴染まないのだが実演により把握できたことも多少あるといったところ。松村の『ピアノ協奏曲第2番』はピアノがやや押し出しが弱いというか線が細いというかでやや魅力が薄く感じた。エルガーはしっかりした演奏とは思ったが、前の2曲で意識がずれたような感じがあり、あまり印象が残らなかった。

 

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 すみだトリフォニーホール・特別シリーズ第1回

2026年8月13日(木) 19:00開演 すみだトリフォニーホール 大ホール

指揮:高関 健(常任指揮者)

ソプラノ:木下 美穂子

テノール:宮里 直樹

バリトン:大西 宇宙

合唱:東京シティ・フィル・コーア〈合唱指揮:藤丸 崇浩〉

児童合唱:江東少年少女合唱団

児童合唱:伊藤 心

ブリテン:戦争レクイエム 作品66

この曲をコンサートで聴けると思ったことがなかったのだが、実際には意外と演奏されているようだった。今回良い機会と思い、間際になったがチケットを購入した。合唱がやや詰めの甘い感じがあったり、一部金管を中心にオーケストラのリズムがばらけかけたりといったことはあったが、このような曲は多少のあらがあっても聴き終えた後の感慨にはあまり影響がない。児童合唱は特に素晴らしかった。

合唱団お江戸コラリアーず 第25回演奏会

2026年8月1日(土) 15:00開演

杉並公会堂 大ホール

男声合唱のための 「王孫不帰」
 作曲/三善 晃
 指揮/山脇 卓也 ピアノ/鈴木 あずさ
 打楽器/村田 雅之、吉岡 駿冶
 Tenor Solo/佐藤 拓、須永 紀彦、中川 凛太郎
男声合唱とピアノのための組曲 「アポカリプス」 ―熔解する首都に―
 作曲/信長 貴富
 指揮/山脇 卓也 ピアノ/松元 博志
【委嘱初演】
 東京 作詩/竹内 浩三
 日本の憂愁 作詩/小熊 秀雄
 東京公園 作詩/草野 心平
男声合唱のための 「二つのMONOGATARI」
 編作詞、作曲/千原 英喜
 指揮/村田 雅之
 壱のMONOGATARI 耳無芳一合戦壇ノ浦
  「平家物語」「小泉八雲・怪談―耳なし芳一の話」より
 弍のMONOGATARI 降魔成道―こうして彼は仏陀となった
  今昔物語集・巻一の六「天魔、菩薩の成道を妨げんとしたる語」
  および巻一の七「菩薩、樹下に成道し給へる語」
  「般若心経」「消災呪」より
アラカルトステージ
 Hej, dunkom så länge vi levom
  スウェーデン民謡 編曲/Vilhelm Svedbom
  指揮/村田 雅之
 Türkisches Schenkenlied
  作詩/Johann Wolfgang von Goethe 作曲/Felix Mendelssohn-Bartholdy
  指揮/山脇 卓也
 Grandfather's Clock
  作詞・作曲/Henry Clay Work 編曲/Ralph Hunter & Robert Shaw
  指揮/村田 雅之
 Hard Times Come Again No More
  作詞・作曲/Stephen Foster 編曲/Patrick Rose
  指揮/山脇 卓也
 Bridge Over Troubled Water
  作詞・作曲/Paul Simon 編曲/Ben Bram
  指揮/村田 雅之、山脇 卓也
 マツケンサンバII
  作詞/吉峯 暁子 作曲/宮川 彬良 編曲/田畠 佑一
  指揮/山脇 卓也 ピアノ/村田 雅之、米屋 陽也

 

Point de Vue を聴き逃したという気分があり、『王孫不帰』を目当てに聴きに行った。

その『王孫不帰』だが、以前のコンサートでの演奏は曲の音楽としての作りを聴かせる意図を感じ、良い印象を持っていた。Point de Vue を経て何か変化があるかという興味があったのだが、今回は単に魅力が減退して感じられた。曲の作りは部分をいくら積んでも全体には到達しないという印象、合唱団はただタスクをさっさと片付けたいようだった。

信長貴富の男声合唱にはあまり良い印象がない。お江戸コラリアーずで毎度のように聴いているが、響きがまとまりを欠いてもさもさした音がする。今回の新作では、3曲目の終盤で一時夢のような音が聴こえたので、出来の良い曲なのではないかと思った。あるいはいつも演奏の側に問題があったのか。思想面では今どき終末思想など扱っていてくだらない、とは思った。

千原英喜はあまりよく分からないと感じていたが、今回の『二つのMONOGATARI』はまずまず面白く感じられた。テキストが多少は知ったものだったからということもある。演奏ぶりは、指揮者は自己演出に余念がなく、しかし合唱団は宿題の発表をしているだけで棒に反応しているのではない、というところ。

アラカルトステージでは『Grandfather's Clock』が案外上手でないのがちょっと面白かった。『Hard Times Come Again No More』や『Bridge Over Troubled Water』も含め、英語を歌うのが下手という感じで、思いがけない弱みがあるものだと思った。

指揮者の2人については、山脇はいつまでたっても下振りくさく村田はいつまでたっても学指揮くさい、と見えた。合唱団は性能の高さにもかかわらず学生時代の反芻といった感じが残る。

Chanter les Rencontres ~出会い、うたう。~

2026年7月19日(日) 16:30開演

文京シビックホール 大ホール

<うたう。 ~各団単独ステージ~>

  • THE GOUGE 尾形敏幸:混声合唱とピアノのための「五つのギリシャ的抒情詩」
  • VOCE ARMONICA Iannis Xenakis:NUITS(夜)
  • CANTUS ANIMAE 萩原英彦:混声合唱組曲「白い木馬」

<出会う。 ~指揮者交換ステージ~>

  • CANTUS ANIMAE × 平田稔夫 混声合唱とピアノのための「やわらかいいのち三章」
  • VOCE ARMONICA × 雨森文也 混声合唱組曲「嫁ぐ娘に」より
  • THE GOUGE × 黒川和伸 オペラ支倉常長「遠い帆」より

<出会い、うたう。 ~3団体合同ステージ~>

  • 『なみだ』・と(指揮:黒川和伸・ピアノ:平林知子)
  • Over the Rainbow(指揮:黒川和伸・ピアノ:野間春美)
  • くりかえし(混声合唱とピアノのための「愛の歌」より)(指揮:平田稔夫・ピアノ:平林知子)
  • 混声合唱と2台のピアノのための「交聲詩 海」(指揮:雨森文也・ピアノ:平林知子、野間春美)

第二部以降で三善晃の作品を扱うということもあったが、昔から『五つのギリシャ的抒情詩』と『白い木馬』が好きな曲だったため聴きに行くことにした。

THE GOUGEと平田稔夫は北海道が活動拠点なので直接聴いたことはなかったが、動画はいくつか視聴したことがあった。今回初めて聴いたのだが、声を抜くところが上手く、また指揮は動きの少ない部分でも緩やかな起伏を作り出すことができるので、無闇にテンポを操作したり恣意的な強調をする必要がなく自然に音楽が流れていく。『五つのギリシャ的抒情詩』も曲の形が自然に浮かび上がる演奏。4曲目で高声の喉に負荷がかかったようで5曲目だけ音楽として整理がつかなくなったのは残念だったが、良い演奏だった。ピアノはボリュームも表現についてもやや非力な印象。

VOCE ARMONICAも動画でよく聴く団体。クセナキスは20世紀の大物なのできちんと聴かなければならないのだが、現在まで馴染むことなく来ている。いい加減な印象でしかないが、今回は立派な声で隙のない演奏をしたと思う。

CANTUS ANIMAEだけは何度かコンサートでも聴いている。常に隙のない、という団体でもないが、『白い木馬』はかなりしっかりした演奏だった。と言いつつ『お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく』以来雨森文也の解釈能力について疑わしい思いをもっており、不満を持たなかったわけでもない。情熱一本槍で思い入れをねじ込むことしかしておらず、どのような曲なのか、どのような語りの立ち位置なのか等、あまり考えられていないと感じた。3曲目『折れたバラ』が顕著で、詩にすることで自己憐憫から間合いを取っている、音もその間合いを捉えている、という作品に対して、もとの自己憐憫に密着してしまった。ピアノはピアノで大変な曲を立派に演奏していたが、若死ににしても肉の脂身を食べ過ぎて心臓の病気で、というような力感で、多少違和感があった。

第二部、指揮者を交換して三善晃の作品の演奏となった。『やわらかいいのち三章』では上に書いた平田の美質も感じられたが、CANTUS ANIMAEはこの曲を演奏したこともあるのでもっと振り回した方が普段と違う指揮者である面白さが出せただろう。『嫁ぐ娘に』からは『戦いの日日』と『かどで』。『戦いの日日』の、男声と女声であったり性質の異なるソロといった複数の層が、べったりと塗り潰されてしまった。『かどで』のフレーズの伸縮も、それ自体は自分の好みに近かったがそこにやたらと濃密さを加えようとするために鈍重に感じられた。

『遠い帆』についてはそれほど真剣に聴かない理由が揃っていた。そもそも実際に聴いたことがありいまさらピアノリダクション版と言われても、と思い、また新垣隆は現在に至るも名前も見たくないという気持ちがあった。が、演奏で他のステージより2段階くらい上の集中力を見せられ、引き込まれてしまった。『五つのギリシャ的抒情詩』で声もへたっていたはずが、回復という以上の声を聴かされた。黒川和伸という指揮者を良く知らなかったが、相当の手腕が感じられる演奏だった。

合同ステージの最初に、その黒川の指揮で2曲演奏された。複雑な構成をもつ『「なみだ」・と』はともかくとして、『Over the Rainbow』で妙に何かをやりたそうにしていたのはあまり有効には感じられなかった。とはいえ緩みのない演奏。

『愛の歌』の追究がまるで進まない中、平田による『くりかえし』の選曲は喜ばしい。が、合同演奏という形は多くの人が演奏を経験するという面はあるものの、この曲については十全に組み上げるだけの時間がとれないという結果に繋がっていたように思えた。

『交聲詩 海』のこのような演奏も、個人的にはもういいか、という気がしてきている。曲名からすれば、合唱と二台ピアノでドビュッシーと張り合う気概を持っての演奏が望まれるところ。今回の選曲は一種の惰性のように感じた。

アンコールは平田の指揮で『であい』。

初めて聴く合唱団と指揮者、選曲と演奏の姿勢、作品とステージの魅力など、色々と思うことの多い演奏会だった。

 

『黒人霊歌集』と三善晃の1970年代

tooth-o.hatenablog.com

今年のカンタートもプログラムを購入した。このコンサートの解説はマネージャーの横山琢哉が書いている。基本的には、演奏者に自身の解釈を賭けて解説して欲しいと思っているのだが、それはそれとしてこれまで目にしたことのない三善晃の言葉や作品成立の経緯が書かれており興味深い。特に『黒人霊歌集』の解説は、三善晃がなぜ黒人霊歌? という以前から不思議に思っていた点に関わる内容で、いくらかの納得も得ることができた。

黒人霊歌集であったこと自体については、プログラムの解説は八尋和美の意向があったということのように読める。引用されている初演時の三善晃の文章には、黒人霊歌を編曲するに当たっての心構えなどが書かれている。孫引きになるが一部だけ引用する。

編曲に当っての私の心構えは、霊歌の底に流れる明るさを尊ぶことにあった。いつかは主に召されて安らぐことが出来る、という彼等の信念を、今の私は、私なりに言い換えることに依って、彼等と共有することが出来、それは今、私自身の原風景を通りすぎる微風ですら、ある。

「私なりに言い換えることに依って」と言うのだが、三善晃が「主に召されて安らぐことが出来る」を「私なりに言い換える」とどうなるだろうか。

私事を重ねて心苦しいが、「チェロ協奏曲」作曲中の74年の秋、すれちがいで会えなかった母の死は、私の中で対極的だった生と死を、なごませた。死は生ではないにせよ、生は死の軌道であろう。その実感は、生死をも捨象する無の実感から与えられた。母その人は無の側に入っていったが、母の死は無のこちら側に残されている。(「弧の墜つるところ」)

最近まで私は、死とは、生の末端に小さなスフォルツァンドをつけてまたたく一点の光だと思っていた。それは、あくまで生の側の、かけがえのない一瞬間である。

しかし、自然は絶えず死を演じつづけてい、人の死は生者を風や流水に化身させるものならば、むしろ、死という永遠のうえに生は、途切れ途切れに続いているものではなかろうか。(「生の途切れに」)

こうして、死は、生の末端で小さい輝きを放つ出来事のように、私には思われていた。

だが、はたしてそうだろうか。二年前の初秋のある朝、私は、信州の高原の空へ消えてゆく母の煙を見上げていた。突然の死に接して、私は永別のかなしみに耐えるよりも共に焼かれることを希ったが、母を焼く煙が山肌を伝い、梢とあそび、蒼碧の空に溶けてゆくのを見ているうちに、ある種の安らぎ――慈悲の優しさのなかにたゆたう安心を、与えられていた。永遠の流れ(レオス)のなかにまず死があり、生はその上に、干潮になれば現われる貝がらのように、途切れ途切れに浮き現われているにすぎないのではないか。今の私という現世にしても、また。(『レオス』)

三つ引用した。最初は1974年の『チェロ協奏曲』について、1985年の個展の際の文章から、2番目は『遠方より無へ』に収められた、1975年の『変化嘆詠』に触れた文章、3番目は同じく『遠方より無へ』より、1976年の『レオス』の解説。『黒人霊歌集』を挟んで作曲された『変化嘆詠』と『レオス』について、作曲時の意識の連続性は後者2つの引用文から明らかだろう。また、母親の死に関する言及から、この連続性が単に後者の2作品の間に留まらず『チェロ協奏曲』の時期からの一貫したものであると考えられる。

「弧の墜つるところ」は1985年の文章であり、作曲順としては先行している『チェロ協奏曲』に触れたものではあるが、引用した部分はこの時期の思考の整理とみられる。「私の中で対極的だった生と死」と言うのだが、ここには生きている自分と分かたれた死者、という意味合いがあると考えられる。ここで引用した後には、さらに次のように書かれる。

覚書で宗さんは言う。「できれば、死者などと呼びたくない。殺されたために、わたしのなかの生者となっている。そして、わたしは殺した連中の一人なのである。どうして鎮魂がわたしに可能でありえようか」。「レクィエム」の弧は「わたしのなかの生者」を過ぎるだろう。(「弧の墜つるところ」)

ここで三善晃は自身にとっての「わたしのなかの生者」のことを言おうとしている。生と死が対極であればありえない「わたしのなかの生者」との宥和の可能性が、先に挙げた3つの文章での生死の捉え方の内に期待されているのだろう。

このように見るなら、「私なりに言い換える」という意味も推測できる。「主」は「わたしのなかの生者」に、「召される」は自身の死に、「安らぐことができる」はそこでの宥和に写像されるだろう。

「わたしのなかの生者」との宥和、と荒く言ってしまったが、そのような課題が1970年代半ばの作品では展開されている。これが課題となったことの起点には『レクイエム』があり、またこの課題の先に『詩篇』が作曲されるのだが、『黒人霊歌集』までを含めた課題意識の連続性の強固さを見るとき、その前後にある2つの作品の意味も反省する必要があるように感じられる。