『月夜三唱』の曲のピアノが、月の光とそれに照らされた光景を描いている、と言うことは一応できるだろう。合唱も含めてオクターブの動きが頻繁に現れるが、特にピアノの高音部で弾かれる時には特に光のイメージが残る。
これは聴けば分かることではあるが、一方で裏側から見ることもできる。実際、『月の光 その二』の最後、黒々とした森の中ではピアノが消え、合唱のみとなっている。このことから、ピアノの沈黙は全曲を通じて、表現上の意図を持って積極的に選択されていると考えられる。
ピアノを伴わない部分を拾い上げてみると、次のようになっている。
- 『月の光 その一』では「チルシスとアマントが」と「おっぽり出してあるばかり」の2か所
- 『月夜の浜辺』では「僕は思ったわけでもないが」、「月夜の晩に、拾ったボタンは/指先に沁み、心に沁みた」、最後の「どうしてそれが、捨てられようか?」
- 『月の光 その二』では、最後の「森の中では死んだ子が/蛍のようにしゃがんでる」
これらの場面でピアノが鳴らされないのはなぜか。ピアノを月の光とするなら、月の光は何を照らさないのか。
その前にまず、月の光は何を照らしているのか。
「月の光 その一」の詩の始めに登場するのは「死んだ児」だった。次に「チルシスとアマント」が現われて、場面が幻と定まるのだが、これらの幻は子供の死んだ現実を否定したい願望から生じている。そうした幻を月の光は照らし出している。
これを一応の解答として、「月夜の浜辺」に話を移す。この詩は解釈ということをあまり言わないようだが、この曲集の中では特殊な意味を持ち得る。
月の光が照らすのは願望から生まれる幻だったのだから、月夜の晩は幻であり、そこに落ちていたボタンもやはり幻ということになる。否定したい現実である「死んだ児」でも、明らかにフィクションである「チルシスとアマント」でもないただのボタンがなぜ落ちていたのか、という疑問を持てば、ここでは話が逆ということになる。ボタンは「指先に沁み、心に沁みた」のだから、それは「指先に沁み」るために落ちていたことになる。ここでは幻に対して手触り、現実感の欲求が発生しており、それは幻を現実に対してより確かなものとするために求められている。
「ギタア」についても触れておく。思いつきのようなものだが、これはボタンと指先を通じてつなげられているのではないか。指先の感触が現実感に通じ、「ギタア」は実際に現実の物であるために触れれば否定したい現実に戻ってしまう、だから「おっぽり出してあるばかり」になる。
これで、前2曲でのピアノを伴わない部分についてはおおよそ話がつくことになる。「チルシスとアマント」には架空のキャラクターの出現に対する驚きがあり、「おっぽり出してあるばかり」には現実への拒否感、「僕は思ったわけでもないが」には生活上の配慮がある。これらには、願望の幻を相対化しかねない現実に対する意識がある。この後の「月夜の晩に、拾ったボタンは/指先に沁み、心に沁みた」「どうしてそれが、捨てられようか?」は現実への意識を幻に埋没させるために生じた、現実感への欲求となる。そして、幻はより精彩に映らなければならず、現実への意識の働きは曖昧にしなければならない。月が照らさないのはこの現実への意識であり、ピアノの有無はそれを峻別している。
このように捉えた上で、第3曲『月の光 その二』に入る。目まぐるしく駆け回るピアノ、異様に拡大された間投詞、奇妙に単調なリズムを繰り返す歌が狂騒的な空気を生み出す。現実感への欲求がより刺激的な感覚を求めるようになり、音楽が振幅を激しくする。が、ギターを「いっこう弾き出しそうもない」、これは幻の刺激がついに現実を乗り越えられないことを示すだろう。
こうして、黒々とした森が現れることになる。森は幻の中にありながら月に照らされていない。曖昧化され、切り分けられていた現実への意識が幻と地続きになり、その奥に、幻が隠そうとしたもの、幻と自覚された、死んだ子の姿がある。月が照らさないものは、この隠蔽のために照らされないのだった。
詩としては、「月の光 その一」と「月の光 その二」は時間的な展開を持たないもの、一場面を切り抜いたもののように読まれることが多い印象がある。多田武彦の『中原中也の詩から』の『月の光』などもそのような受け止めによっているように感じる。
『月夜三唱』で、三善晃はそのようには読んでいない。「その一」と「その二」それぞれに対して認識の展開を読み込んでおり、さらにこの二編の関係も変化として見ていて、その間の線を『月夜の浜辺』が繋ぐ形になっている。