合唱とピアノ

「合唱とピアノは合わない」という話はときどきある。萩原英彦はCDの解説で、合唱とピアノの組み合わせについて「ふたたび立ち戻る事はない」と書いた。『白い木馬』では、恐ろしく緊迫したピアノの前奏の後に合唱が入ると、ちょっと滑稽な感じに聞こえてしまったりする。
個人的な経験としても、納得する面がある。無伴奏の曲のあとに『季節へのまなざし』を聴いたことがあったが、どう聴いてよいか分からない感じがして困惑した。
ピアノの平均律に原因を求める話があるが、これは同意しづらい。そこが問題になるほどピッチの良い団体を聴いてこなかった。また、ピアノの打撃音と声の持続の違いが指摘されることもあり、そうかなと思うこともあるが、タヴナーの合唱とチェロの曲を聴いた時にも似たような困惑を感じたので違うようにも思える。
三善晃は、常に合唱とピアノのための曲を書き続けてきた。
三善がこうしたことに無頓着であった訳ではないだろう。それはたとえば『宇宙への手紙』でピアノが一か所だけ使われる部分の意味づけを見れば分かる。
不思議なのだが、やはり無伴奏の曲のあと、『交聲詩 海』を聴いたことがあり、その時にはこのような困惑はなかった。だが、これはそうなるよう三善が工夫をしているのだろう。『生きる』のような、ピアノから書き出された曲では、やはり合唱との組み合わせに据わりの悪い感覚がある。