『さまよえるエストニア人』(『蜜蜂と鯨たちに捧げる譚詩』)

三善晃の拍子や連符などによる象徴的な表現や描写などについては何度か触れてきた。

 

tooth-o.hatenablog.com

tooth-o.hatenablog.com

こうした観点から『さまよえるエストニア人』の楽譜を眺めたとき、「彼の背中には/羽が生えている」に現れる五連符がまずは目に付く。これはリズムの揺らぎを通じて、父が天使というこの世のものでない存在になったことを表現する。そして五連符が次に現れるのは、曲の最終部、合唱が最後の和音を伸ばす部分になる。ここではピアノが五連符により急速に下降していく。この意味も分かりやすい。五連符が天使を表すことから、このピアノは「天使たちの船が庭を通り過ぎる」という詩の最後の場面を描いていることになる。

もう一点、非常に目立つのが「うたっていた日の」の部分の、ピアノによる六連符の刻みになる。これが「蜜蜂の歌」の詩句に対応する蜜蜂の羽音の描写であるのは明らかだろう。先の五連符は聴くだけでは分からないのではないかと思うが、こちらは詩を把握していれば気付く可能性が高い。

ここでの「気付く」というのは意味を把握するということだが、何度か聴いている内に、実はこれはそれ以上のものではないかという気がしてきた。三善晃はここで、本当に蜜蜂の歌を鳴らそうとしているのではないか。

楽譜を見直してみる。ピアノの右手がオクターブで六連符を刻む一方、左手側は八分音符から二部音符によるより大らかな動きとなっている。合唱は2小節ごとのフレーズになっており、アルトやテノールの divsi により5声部ほどのホモフォニーが豊かな和音を鳴らす。

ここでのピアノの右手によるオクターブだが、低音側は合唱の音と重ねられている。このことが、左手の力強い低音と合唱の和音と相まって、不思議な響きを生んでいるのではないかと思う。オクターブの下の音は基音が曖昧になり、細かい刻みにより発音時の噪音的な響きが分離される。一方では上側の音、さらに合唱との重なりにより倍音が強調される。

さらに細かく見ると、右手の刻みは2小節ごとの始めの音だけその後よりも低い音を弾く。これによりオクターブの音がそれ自体で発音されているというよりも別の音から共鳴により生じているような印象が生じる。

これらが合わさることで、蜜蜂の羽音のような噪音の反復が高音の豊かな響きを生み出しているような効果となっているのではないかと思われる。楽譜は当たり前のように書かれているが、この部分には思いがけない音響上の挑戦があり、しかもそれは作品の重要な要素となっている。