『魁響の譜』(日本フィルハーモニー交響楽団 第758回東京定期演奏会)

『魁響の譜』を演奏するというので、日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会を聴きに行った。

 

日本フィルハーモニー交響楽団 第758回東京定期演奏会

2024年3月23日 14:00

指揮 アレクサンダー・リープライヒ

ヴァイオリン 辻彩奈

 

オーケストラの演奏は聴きつけないので何とも言いづらいのだが、良い演奏だったと思う。特にシューマンの第1楽章の自在さが印象に残った。

雑な印象として、演奏された曲については明るさを感じた。それは『魁響の譜』も含めた話で、解説によれば岡山シンフォニーホールの開館記念演奏会のために書かれた曲であり、作曲の経緯からは自然なことではある。が、『祝典序曲』がタイトル通りの印象をもって聴かれてはいないことを思うと、この作品の性格についてはまた別に考える必要があるかも知れない。

今回『魁響の譜』を聴いて感じたのが、苛立ちや憂鬱さといった表情のないことだった。このような表情は、80年代半ば以前には三善晃の作品の重要な要素と見做され、おそらく聴く側はその裏に作曲家自身の姿を感じ取っていた。80年代の後半以降こうした表情が後退したことは、例えば『交聲詩 海』などを思い返せば分かるだろう。

また、この頃から機会音楽的な作品が増えている印象がある。合同演奏のための曲や地域に向けた作品が多数書かれており、オペラ作品として注目される『遠い帆』もそのような系統と見ることができる。1991年作曲の『魁響の譜』についても、やはりそうした中の1曲といえる。

CD『三善晃 交響四部作』のために書かれた文章「無言の風景」を思い出す。「三部作のとき、そこには私がいた」「四部作のときには、そのような私はいなかった。替わりに八月がそこにいた」と三善晃は書いた。

『魁響の譜』も、「私はいな」い音楽だろう。そこで替わりにいるのは作品を求めた人たちであり、三善晃はそうした具体的な人たちや機会に忠実な作品を書いた。90年代の作品の多くは委嘱者や委嘱の経緯と密接に結びつき、そこから広がりを得るまでには作品ごとの曲折があるように見える。