『二つの祈りの音楽』の楽譜を眺めて

『二つの祈りの音楽』については批判的な気分を持っていることを何度か書いてきた。とは言え人気のある曲でもあり、感動的なのも確かで、気になってもいる。それで楽譜を購入し、どんな様子か見てみることにした。特に結論のようなものはなく、気になったことをメモとして書いてみる。

「夜ノ祈リ」の無声音など

「夜ノ祈リ」の所々で無声音の指示がある。また「息まじりの声で」という指示もある。無声音については曲の終盤では「パート内のおよそ半分の人は無声音で歌う」から

2/3の人が無声音で」となり最後の「だせないこえをだして」は全員が無声音になる、という形で、歌から無声音に移行していくように作曲されている。

この最後の部分は、この曲が詩に添えられている通り「埋メラレテイル死者タチノ」歌であること、全体が本来「だせないこえ」による歌であることの表現ではないかと思う。

拍子

「夜ノ祈リ」「永遠の光」ともに、おおよそのところ三拍子で書かれている。これは宗教音楽で昔から「3」という数が重要視されてきたことを踏襲しているような気がする。

この見方が適切かというと怪しいとも思う。3の重要性は三位一体からであって、宗左近の詩の中での「神」は話が違うかもしれない。あるいは、「祈り」「愛」「神」から「夢」という配置に類似を見た可能性はあるか。

さておき、大体、3/4拍子を基礎に一部に4/4拍子が入る、と言える。例外は「夜ノ祈リ」59小節目の11/8拍子だけになる。

歌詞と拍子をざっくり見合わせてみたところでは、3/4は「神とともにある」、4/4は「神と離れている」のような意味合いがありそうに見える。「永遠の光」では4/4拍子は歌のある部分で2小節、ピアノのみの部分で2小節の4小節しかない。歌としては最初のラテン語による無伴奏の部分の最後、小節としては27・28小節、歌詞としては”Domine” のところになる。ピアノはその次の、合唱が日本語の歌詞で歌う最初の部分の後、67小節と68小節になる。

「夜ノ祈リ」の方を見ると、印象的な部分として「いっそ ひとでなくなりたい」「わたしたち ひとでなくなりたい けものよりほえるのです」といったところが挙げられる。また特徴的なのが3/4+4/4という特殊な拍子になる。これは「敵」との戦闘の場面と、最後の部分に現れる。前者は「神」に反する行為を強いられる部分、後者は「神」に「わたしたち」のようになれ、と求める部分になっている。例外である11/8拍子は「敵」の表現で、3でも4でも割り切れない、のような意図があるだろう。

こうした拍子の配置を見渡すなら、「永遠の光」の”Domine” の4/4拍子に対して『「夜ノ祈リ」を受け、神から離れた「わたしたち」が”Domine” を求める』という意味を読み出すこともできそうではある。

3連符

「3」つながりで三連符についても見てみた。まずそもそも合唱の方には三連符はほとんど現れない。「永遠の光」には全く無く、「夜ノ祈リ」でも214小節「ふかく」、234小節「ひきやぶって」、258小節「ともに」の3か所だけしかない。

一方、ピアノではそれなりに出現する。「永遠の光」ではこれも特徴的だが曲の終盤、196小節に第2奏者の側に現れ、それ以前は八部音符より細かい音符が現れない。

「夜ノ祈リ」では主に第1奏者の方に現れる。その最初は「きょうのいくさははじまるのでしょうか」の部分で、第1奏者側は八分音符と並置される形から三連符のみとなり、先の11/8拍子の小節に入る。この小節は八分音符のみ、molto marc. に加え山型のアクセントが付されている。 

以降、詩の内容が同傾向で続くので三連符の使われ方も一口に言えそうにはないのだが、神への問いかけや要請といった場面を表しているように見えなくもない。また、高音側と低音側、上行音型と下行音型にそれぞれ意味がありそうに見える。明確な表現としては211~212小節の第1奏者から第2奏者に引き続く三連符の下降で、この部分での合唱の歌詞は「ほねになったかみさまともども ふかくしずみたいのです」となっているので、意図が分かりやすい。

四連符、七連符ほか

「夜ノ祈リ」の59小節については、11/8拍子と八分音符という2つの点について触れた。この2点は「通じなさ」と「闘争」の暗示となっていると見做せるだろうが、後者はつまり三連符との対比により表現されている。三連符が「3」を通じて神と結び付くならば、二分割のリズム、例えば八分音符、四連符は人、さらには人の行為としての闘争につながるだろう。実際「いくさは」「いくさを」の歌詞は四連符で歌われる。合唱に三連符がほとんど現れないこともこの見方から説明できるだろう。

山型のアクセントは合唱では「いっそ ひとでなくなりたい」「けものより ほえるのです」といった部分で使用され、またピアノでは終盤、合唱が「でも でも ほえるのです」等と歌う部分以降に現れる。これは最終的に「わたしたち」が「敵」と同型になることを表すだろう。

ピアノで冒頭から繰り返される七連符も気になる。3/4+4/4も「7」なのだが、これらについては「神」との関係の動揺、程度のことは言えるだろう。さらに合唱では「はなたちの」「だれたちの」等の五連符もあるが、これは11/8と類似の「通じない」ことの表現ではないかと思う。

ここまでを見た上で「永遠の光」の196小節以降、上で触れたピアノに三連符の現れる小節から先について見てみる。第1奏者側はほとんど八分音符と四分音符となっている一方、第2奏者側は最初の5小節の間3連符が続き、次の2小節は1小節を8分割する八連符、次の2小節は同様の七連符、続く2小節は八部音符だが1小節内で見るならば6分割なので「六連符」と見做し得る。次が五連符、四連符と続き四分音符3つまで至る。そこから第1奏者も五連符、四連符、四分音符にリズムが変わる。

三拍子により四分音符3つが1単位になることに注意すると、三連符のリズム(「3」)から、七、五、四等のそれぞれが示す人の世界の混迷を通過して三拍子のリズム(同様に「3」)に帰着する、という図になる。これが曲に使用されなかった詩句「螺旋上昇吊り上げられ運動」と関わるかは何とも言えないが。

調号など

「夜ノ祈リ」は一部を除いて調号がないのだが、臨時記号が多い。繰り返し触れている59小節から♭が5つとなっている。冒頭のピアノ七連符には嬰ロ、重嬰イなどが現れるのでシャープの多い印象があるが、全体ではそうでもないように見える。「永遠の光」は中間に♯4つ、♯3つの調(ホ長調イ長調)も現れるが、最初と最後は♭5つの調(変ニ長調)となっている。

このあたり不勉強なので手に負えないのだが、曲のこうした方面の特徴から「永遠の光」219小節のピアノの和音、変ニ長調の中でこの和音は全てナチュラルがついて白鍵のみの音になっているのだが、この音の意味や効果について何か言えないだろうか、と思う。実際、この和音についてはその不思議さに触れている発言を見かけたこともあり、自分にとっても驚きと感銘を受けるものになっている。