この曲集はそれぞれ個別の経緯で書かれた3つの作品を集めたもので、3曲まとめて演奏されることもあるが1曲だけを取り上げて歌われることも多い。楽譜の序文には《谷川さんと、すべての「いのち」のために》との題がつけられ、谷川俊太郎の詩による作品であることと「いのち」という主題により、統一性のある曲集としてまとめたと考えられる。
が、やはりこれは後付けであって、序文に書かれた個々の成立事情がそれぞれ大きくかけ離れていること、谷川俊太郎の詩といってもそれ自体が幅広いことから実感としてはまとまりのある3曲とは言いがたい。それぞれの曲が単独で演奏されるのはこうしたことの結果だろう。
曲集として扱う時にはもう一つ何か主題性をもたないと印象が散漫になる。「谷川俊太郎」とするなら詩人の創作のなかでのこの3つの詩、のような観点を持つとか、あるいは作曲時期、近い時期の諸作品との関係を見ようとするとか、とにもかくにも何かが欲しい気になる。
個人的にはこの3曲について、語弊のある言い方だが合唱作品としての純度が低い、という点を見るのはどうか、と思っている。「純度」とは妙な言い方だが、『木とともに 人とともに』は合同演奏のため、『空』は独唱曲の編曲、『生きる』はピアノの即興から、というこれらの作品は、通常の合唱作品の演奏とは違った追求の仕方があっても良いだろう。
『木とともに 人とともに』
合同演奏のための作品ということは、通常それほど徹底した造り込みをしない、団体ごとに曲作りの姿勢が、さらには音楽に対するスタンス自体が異なる、等の状況下で歌われても成立する、ということになる。曲集の中ではもちろん求心的、集約的に作り込めばよいのだが、そうでなく合同演奏としての性格を表出するとしたらどのようにすればよいだろうか。
『空』
この詩とこの歌はやはり歌曲のものという印象がある。歌曲集の第4版が発刊されて『空』の原曲も楽譜を見ることができるようになり、比較できるようになった。歌曲と合唱の印象の差異は「さびしさはふたりで生きている証」の言葉が個人の心情であるかそこから離れた何かしらの真実であるか、というところにあり、この歌は前者につくべきだろう。合唱によってそこに到達するのは一つの挑戦になる。
『生きる』
「ピアノのための無窮連祷による」と付されているのだが、この関係を逆に見ることができるのではないか。つまりこの曲を『「生きる」を伴うピアノのための無窮連祷』として扱うことにより、三善晃が1999年の大晦日に弾いたピアノへと接近することはできないだろうか。