『詩篇』Ⅴ.途中の途中・滝壺舞踏

東京都交響楽団の演奏は、合唱のリズム感がやや鈍い印象があった。特に、標題のセクションではリズムに乗り切れていないというか、口が十分に回っていないように感じられた。

https://www.youtube.com/watch?v=UZtIiWtHrLE&t=1166s

そうした状態で演奏として成り立たせようとするならば、歌い切れる部分の言葉の訴えを強く出すことになる。最後の「おれたち生きた」が端的な例になるが、そのように演奏されると、この部分は罪悪感の歌になる。詩の言葉から訴えかけを組み立てようとすればそうならざるを得ないのだろう。演奏の練度や技術的な問題が、解釈に影響を与えることになっている。

組み立てと書いたが、問題はここでの罪悪感が意識的に組み上げられている点にある。技術的な問題が訴えかけを要求し、訴えかけの必要が内容としての罪悪感を求めるのであって、つまり音楽や詩に根を持っていない。

宗左近の詩が罪について語っているのは確かだろうし、『詩篇』もまたそうだろう。音楽や詩に根を持たないということはつまり、「罪悪感」にもかかわらず罪そのものの実感が欠けている。必然と言えば必然であって、宗左近のことを「何て酷い奴だ」と思いながら歌っている人というのもそうはいないだろう。

 

「滝壺舞踏」のような歌を発する意識とはどのような状態か、と想像する。このリズムを自発する身体的な感覚を思うとき、自分にはこれは「頭がおかしい」ということだと感じられる。

なぜ「頭がおかしい」状態になるのか。「滝壺舞踏」の詩句を見てみると、

山がはじけた 海さかまいた

吊り橋はねた 青空さけた

黙示録的というのか、世界の終末のような言葉が連なっている。そのまま受け取るなら、詩の語り手は世界の終わりを目の当たりにしている。世界の終わる光景を目にしたためにおかしくなっている、ということになる。詩の言葉はさらに

きみたち死んだ おれたち生きた

と続く。事態としての罪はここにあり、それが世界の終わる光景と直結している。

ここで言っているのは、罪があるとは世界が終わるのと同じ、ということなのだと自分は考える。

償うことのできない罪が現にあるとき、山も海も、世界にある全てのものが罪と関りを持たない。罪が自身に重大な意味を持つならば、他の全てのものが意味を失うことになる。罪を認識した瞬間、一挙にそれが起きる。だから、罪があるということは世界の終わりと同じことなのだ。

「滝壺舞踏」の詩は世界の終わりとしての罪を語り、歌は反応としての狂乱を歌う。その間で描かれるのは「罪が現にある」という実体的な感触だろう。そして、罪の感触と「君たち死んだ おれたち生きた」と世界の終わりと「頭のおかしさ」は全て一体であり、最後の「おれたち生きた」の叫びに表れなければならない。