三善晃とピアノ作品(3)

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「ピアノのためだけではない作品」については、例えば『生きる』はまさにその一つだったわけだが、この曲の特殊な点は、もともとただピアノを弾いていたはずなのに結果としては合唱作品になったところにある。

ピアノを伴う室内楽の作品が、初期のソナタ室内楽’70のための『オマージュ』のシリーズを除くとやはり数として限られることを考えると、「ピアノのためだけではない作品」の主要な部分は結局声楽曲、合唱曲となる。実際、三善晃自身も「私のピアノ欲求は、きっと合唱曲のピアノ・パートで満たされているのだと思う。」と書いている訳だが、こうした作品をピアノの側から考えたとき、詩の存在はどのような意味を持っていたのだろうか。

ここで「詩と声とピアノ―私の音楽」に戻る。

私はピアニストではない。ピアノで育ち、ピアノで息をし、ピアノで話をしてきていて、だが、ピアニストの”仕事”はできない。

の部分、「ピアノで」の繰り返しにはピアノの身近さという面とともに、ピアノをメディアというか、媒介的なものとして語っている面があるように感じる。恐らくは「親しさ」や「容易さ」という言い方をしてきたようなことが、そのような関係をもたらしたのだろう。思うことがそのまま実現するような領域の内には、目的とし得るものは存在できない。

ピアノを媒介とするなら、それを通じて表れるべき何かがあることによって、ピアノ自体も意味を持つことになる。詩が、そのような何かであるかというのは三善晃の詩への対し方によるので、曲ごとに事情がことなるようではある。『生きる』では鳴らしていたピアノの意味を詩の方から伝えに来た、というように見える。『三つの抒情』『三つの夜想』については

そのピアノは、ピアノのためのノクチュルヌあるいはバラードである。

と書いている。個別の事情を追うのは大ごとになるが、ピアノの上での自在さを意味づける面が詩にあったのではないか、という風に自分には思える。

あるいは室内楽では、他の楽器や共演者の存在が類似の働きとなっていたのではないか、とも思う。『オマージュ』の見方によってピアノを伴う室内楽作品もまた多いとも少ないとも言える訳だが、多いとするならその事情も似ていたのではないか。さらに言うと連弾や2台ピアノの作品が案外とあり、これらはまた室内楽の場合と類似するのではないだろうか。