シャボン玉の割れる音

bungo618.hatenablog.com

三善晃の『シャボン玉』(『虹とリンゴ』)に関して、

シャボン玉が割れるような音がしたけどあれは詩のどこの部分なんだろう?

と上の記事で触れられているのは、詩の最終行、曲の中でも終盤の「まるで美しいシャボン玉のように」の部分だろう。ここは「各自、自由に歌い、クラスターをつくる」との指示により、アルトが「美しい」、ソプラノ・メゾソプラノが「シャボン玉」の言葉でそれぞれの音型を繰り返すようになっている。

実際、ここでは「シャボン玉が割れるような音」が聴こえる。その仕組みが「うつくしい」の母音が他の声に吸収されて ts、k、sh の子音が分離されるためらしいというところまでは一応は分析できる。それを作曲者が意図したのかと考えるのだが、『さまよえるエストニア人』の「蜜蜂の歌」を思い返すならこれもまた意図的と見ることができそうではある。

そうだとして、三善晃はなぜシャボン玉の割れる音を書いたのか。または、ここで「シャボン玉が割れる音だ」と聴く側が感じることはどのような働きをもつだろうか。

この場面が湧き出すような無数のシャボン玉の映像的な表現なのは分かるわけだが、そのことがこの「割れる音」によって明確になっている面はあるかも知れない。そこから「漂い出て高く昇っていくひとつのシャボン玉」が導き出されるので、重要といえば言えるか。また、シャボン玉はすぐ割れるものだと意識させる面があり、曲の終わりまでの緊張の持続をもたらしている。

ところで、虹の色はシャボン玉の表面に映っているのだった。

おお季節 その季節に虹が懸かっている

(初演時プログラムノート)

シャボン玉の割れやすさ脆さは、秋へとかかる虹の儚さへと三善晃の中で結ばれている。言葉としてであればこのことは分かるのだが、それを音として納得させられるか。「シャボン玉の割れる音」はそのための要素の一つだろう。