Tokyo Cantat 2023 やまとうたの血脈XII  地球へのバラード~傷みの泉から祈りの声を~(5)

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この演奏会の全体を思い返すと、まずは演奏のレベルの高さが印象に残った。不満も多々書いたが、それもまずは演奏が高水準で成立した上での話であって、その段階で疑うことなしに意味や意図を考えられるのは大きなことなのだと思う。

また、あまり聴く機会を得られなかった『月夜三唱』『田園に死す』『交聲詩曲 波』や、器楽作品の『C₆H』を聴くことができたことはありがたかった。特に『月夜三唱』についてはCDや動画で聴ける演奏にあまり満足できていない中、良い演奏を聴くことができた。

しかしながら、このコンサートはこれで良かったのか、と思う気持ちがどうにも残る。最後にそのことを書いておきたい。

今回の演奏曲は、最も知られた作品からはずらしながら、三善晃の合唱作品全般を眺めた中から取り上げられている。もう少し細かく、『月夜三唱』『田園に死す』は三善晃の個人としての内面あるいは文学的な性向を、『王孫不帰』『オデコのこいつ』『嫁ぐ娘に』は抱えた主題を、『交聲詩曲 波』『唱歌の四季』は世の中への思いを、それぞれ描き出そうとしたものと見ることはできるかも知れない。そしてそれらを包括するものとして『地球へのバラード』が配されている。

このように見るとき、第2の曲群の集約性、また『王孫不帰』と『オデコのこいつ』は2016年のコンサートと共通であることが特徴的と感じられる。他は作曲時期も内容的にも隔たりの大きい中、この2作品は作曲年が近く、内容の連続性も作曲者自身が言及している。ここに『嫁ぐ娘に』が続き、戦争体験や反戦のテーマが浮かび上がる。

つまり、三善作品による2つのコンサートから見えるトウキョウ・カンタートのスタンスは、『レクイエム』を三善晃の作品の中核とし、そこからの距離によって中心的なものと周辺的なものを評価する枠組みになっている。『月夜三唱』と『田園に死す』は周辺領域からの「招待作品」であり、『地球へのバラード』は合唱の領域とのインターフェースとされている。そしてあたかも、「戦争体験」こそが三善晃の本質であり、そこに触れなければ三善晃を深く扱ったことにならないかのように言い立てる。

自分には、この活動に権威の設定と固定化の傾向があると感じられる。分からないことを置き去りに、探求のための切り口を封じて「私達は分かっている」と装う、偏狭な姿勢が見えると思う。「私が歌う理由」を問いたい、などと、何様のつもりで言えるのか、「戦争体験」の語りがその厚かましさの裏付けであるというのは、しかもそれがまかり通って冊子が出来上がってしまうのは、不条理で馬鹿げたことだ。