三善晃「弧の墜つるところ」

合唱指揮者の横山琢也氏がこのように書いていたのを見て、こんなのは三善晃が『王孫不帰』、『オデコのこいつ』、『レクイエム』、という話を書いていたからというだけの、つまらない話だよな、「本質」とか意味不明だしな、と思った。思ってから、なら「三善晃の本質」と言った時に自分はどう考えるのか、と振り返った時に思い浮かんだのが表題の文章だった。

「弧の墜つるところ」という文章はCD『三善晃「レイクエム」』のブックレットに載せられていて、初出はサントリー音楽財団コンサート「作曲家の個展’85 三善晃」のパンフレットとのこと。この演奏会は三部作全曲を演奏するもので、文章の内容も『レクイエム』から『響紋』までの時期を三部作を軸に語るといったもの。文中の言葉を使用して要約するなら、『レクイエム』を起点とする弧は「わたしのなかの生者」を通り過ぎて無へと回帰するべきものだったが、『詩篇』『響紋』によってそれは達成されただろうか、といったことが書かれている。

文中に

「わたしのなかの生者」という鏡が写したものでしかない遠方

とあるので、三部作は『レクイエム』より生じた課題について、「遠方より無へ」(『プロターズ』(1974)の副題) の標語に沿って解決を目指したものと見られる。このことも含め、この文章からは三善晃が作曲を通じてその時点ごとの課題を解こうとしてきたことが読み取れる。

こうしたことは書籍『遠方より無へ』でも『波のあわいに』でも読んで追えばよいのだろうが、ここ数年、自分は別のことが気になっている。三善晃にとっての「わたしのなかの生者」とは誰だろうか。

「わたしのなかの生者」は宗左近の使った言葉で、同文章の中では詩集『縄文』の「覚書」からとして次のように書かれている。

「できれば、死者などと呼びたくない。殺されたために、わたしのなかの生者となっている。そして、わたしは殺した連中の一人なのである。どうして鎮魂がわたしに可能でありえようか」

三善晃の生年が1933年、終戦が1945年ということは、終戦時の三善晃は12歳でしかない。上のような思考をする年齢とも立場とも思えず、三善の「わたしのなかの生者」がこの時期の人物であるとするのは不自然だろう。

とするならば、三善晃の「わたしのなかの生者」は戦後に生じた問題ということになる。それはいつのことだろうか。

 十代の終わりから私は、ものを、あるいは生き方を、というべきであろうか、えらぶことができなくなった。

これは『遠方より無へ』の最初に置かれた文章「一瞬の望見」の始めの部分にある文だが、この「十代の終わり」のことではないか、と想像する。『レクイエム』に到るさらなる起点が、ここにあったのではないか。

冒頭にあるような「本質」の語り方は、二十代の作品の美を説明しないところに物足りなさがある。別の何かがあるはずと思っており、その自分にとっての入り口を書いてみた。「三善晃の本質」というものがあるとしたら、それは確定したテーマではなくある課題を解き、それが次の課題を生み、またそれを解く、という経過の中に見られるのではないか、とも思う。