2023年5月12日(金) 19:00開演
東京文化会館大ホール
指揮:山田和樹
混声合唱とオーケストラのための『レクイエム』(1972)
合唱:東京混声合唱団(合唱指揮:キハラ良尚)
武蔵野音楽大学合唱団(合唱指揮:藤井宏樹)
童声合唱とオーケストラのための『響紋』(1984)
合唱:東京少年少女合唱隊(合唱指揮:長谷川久恵)
とにもかくにも歴史的な演奏会であり、チケットが一般販売になった時点で予約した。気分としては楽しみのようなそうでもないようなというところで、録音では馬鹿馬鹿しいくらいには繰り返し聴いた3曲であり、会場に向かう間は不安でもあった。
何はともあれ聴くことができたのは良かった。が、感想としては「こんなものなのかなぁ」というあたりになる。一応各曲ごとに触れておく。
『レクイエム』
田中信昭は偉大であり沼尻竜典はやり手である、ということを思った。この曲はCD『三善晃の音楽』で聴いており、当然良く聞こえるようにされているので割り引く必要はあるのだが、この録音の方が曲を分かっていると感じる。特に違っているのがリズムの明快さで、今回の演奏は合唱の動きがやや鈍く、特にここぞというところで嵌らない、決まらないという印象があった。この曲は実は踊れる曲なのではと思うのだが。「人が死ぬ」のあたりでようやく多少は乗れる調子になったが結局はそれだけになってしまった。
実際に聴いて、録音を重ねる部分は印象に残った。特に第二部分で、重なって普通の声とは違った響きになるあたりは興味深かった。ただ、この点の解説がないのは不親切で、元々知っている人以外は聞き逃したのではないかと思う。この点、プログラムの解説は用をなしていない。
『詩篇』
『レクイエム』の時点でも思ったのだが、歌っているテキストのことをあまり良く考えていなかったのではないか。歌であれば、音がきちんと鳴っていれば十分ということもあるけれども、特に『詩篇』では語るところや音高の指定のないようなところが多く、そこで言葉を何のつもりで口にしているかは曲を通じて重大な問題になるはず。例えばの話、「誰がドブ鼠のようにかくれたいか」と「きみたちが殺されなければ/縄文/などどありはしなかったのだ」との間で、語り方にほとんど違いを感じなかった。それは、2つの曲の関係を考慮できていないということではないだろうか。
他では「Ⅴ 途中の途中・滝壺舞踏」の部分が辛かった。言葉も聞こえないがリズムも聞こえないだとさすがにどう思いようもない。が、その先、「空が沈んでゆく」からは大きな盛り上がりを作り出していた。「Ⅷ おわりのないおわり・波の墓」のカタルシスで曲をまとめるのは安易な曲作りにしてしまったとも思うが、それなりに感動的ではあった。実演によって理解できたのがその後の部分で、「空が沈んでゆく」の言葉に対応して残照の消えていくイメージとなっていた。
『響紋』
印象としては順に聴きやすくなって来たのだが、特に『詩篇』と『響紋』の違いが大きい。合唱の音域の問題や、基本的に童謡なのでそれほど意識を振り向けないで済むということがあったと思う。すっきりとした見通しの良さの中で、オーケストラも合唱も良い演奏をしていたと思うが、やや盛り上がり具合がどことなく散漫だった。合唱の演出で、手を繋いで振ったりしているのは良いと思ったが、歌いながら入場や始めと終わりであからさまに子供っぽい声にしたり最後に背中を向けたりというあたりは白々しく感じた。演奏自体で合唱とオーケストラを意味づけられていればこのようなことは不要とも思える。
書いている内に、意外にきちんと聴いていたという気がしてきたが、良いところは良いというような感想のために聴きに行ったコンサートではないのだと言いたくもなった。この3曲にはもっと何かがあるはずだと思うのだが。