『月の光 その一』

『月夜三唱』はなかなか馴染めないでいた曲。CD『ヴォイスオブエンジェル3 三善晃作品集』を所持しており聴くこと自体はいつでもできたのだが、もう一つイメージが明確にならない感じがあった。

「月の光 その一」の詩は多田武彦も『中原中也の詩から』の終曲で採り上げており、こちらの方が有名かも知れない。詩は七五調の6連12行から成り、多田武彦は2連4行を一組として、ホモフォニーによりほぼ同じ緩やかな歌を3回繰り返す簡素な曲としている。自分でも歌ったことがあり、この曲については「何か悪い薬でもやっているような」という印象が残った。むしろもともと詩自体にそうした感覚があり、それが曲に反映されているということだろう。

三善晃の『月夜三唱』は女声合唱で、ピアノが加わることもあり多田武彦の作品よりも大分複雑になっている。この曲への馴染めなさのひとつに、男声合唱で歌った曲に比べてのこの複雑さがあった。が、最近になり、この2曲の違いについて、妥当性はともかくとして納得できるようになった。両者とも「何か悪い薬でもやっているような」までは同様で、その「悪い薬」の効果が、眠くなる薬と目が覚める薬という風に違っている。多田武彦の場合は思考が茫洋となり幻覚を見るのだが、三善晃の方では感覚が鋭敏になり全てがくっきりと明晰に見えている。ピアノの音の細かさはその解像度を示しているのだろう。

ところで『遠方より無へ』に収録されている『月夜三唱』の解説に、次のように書かれている。

『月夜三唱』は、詩(特に、「月の光」その一、その二)のフィクシャスな劇を通じて、メルヘンを描こうとした。

「メルヘン」という言葉を、三善晃は『三つの海の歌』の楽譜の前書きでも使っている。

メルヘン的世界にある詩に音の光をあてる時、ある意味でデモニッシュな精巧さを要することは、私には不可避であるように思われる。

「デモニッシュな精巧さ」が『月夜三唱』では上で言った「解像度」として表れている。そして、その「精巧さ」、幻想の明晰性自体が、それによって塗り込められる現実の痛みの表れでもある。