件のモノオペラ

書かれなかった作品の話をしてどうなるということではあるが、『歌集 田園に死す』の楽譜の序文で触れられている、書かれずに終わったモノオペラのこと。「胎児の自殺」という、ややショッキングな話だが。

昭和31年の冬、私はパリ郊外の僧院に起居して女声のためのモノオペラを書こうとしていた。胎児との会話・その胎児の自殺という筋書きだった。それは書き上げることができないまま今に到っている。

(歌集「田園に死す」と私)

着手したのが留学中の1956年、『田園に死す』の初演が1984年、楽譜の書版発行が1987年。つまり、この文章が書かれるまでおよそ30年が経過している。

次の文章などを見ると、三善晃にとって自殺ということが作品の中に閉じない、現実的な問題だったことが伺える。

  • MONTHRY EDITORIAL02:JAZZTOKYO
  • 「弧の墜つるところ」(「作曲家の個展'85 三善晃」パンフレット/CD『三善晃「レクイエム」』ブックレット)
  • 萩原朔太郎「五月」に関連した文章や作品(「もしかして」「一瞬の望見」/『遠方より無へ』、歌曲『抒情小曲集』)

現実の問題だからこそ、時期によりその意味が変わっていく様子も見える。モノオペラはそれが表に出る最初であったかも知れなかった。

引用した文に戻るが、「胎児」とはおそらく「死ぬべき理由」がない、ということだろう。また「女声のため」ということは歌手は母親の役になる。

空想でしかないが、胎児が「生まれない」ことを選ぶことは母に対してどのくらいの罪か、という話だったのではないかと思う。「罪」という言い方をしたが、生きている人間の「死ぬべき理由」とは罪のことだろう。それを測るために、罪を犯さずただ「生まれない」ということの罪の大きさを対置するのが、モノオペラの目論見だったのではないか。

ともあれ、この問題は先に書いたように30年、三善晃の元にあり続けた。その期間は合唱曲を書き始める前から始まり、また三部作に関わる期間をまるごと含む。『田園に死す』は寺山修司の短歌によることも含めて、モノオペラから創作の領域に切り出すはずだったその問題のひとつの区切りとして作曲されたのだろう。1980年代の前半はそのような整理を進める時期だったように自分には感じられる。