『柳河』(多田武彦『柳河風俗詩』)

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聴く人のための男声合唱ガイド」の方の「多田武彦試論」

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をお見かけして、自分でも多田武彦について考えてみたりしている。で、「日本男声合唱史研究室」の方が『柳河』についての記事を公開されていたのを思い出した。

male-chorus-history.amebaownd.com興味深いのは

楽譜を並べると,歌詞の書き方に漢字を混ぜる違いはあるが,音は変えられておらず,多田武彦合唱曲集では速度記号「4分音符=126」が打たれている点が異なる。これはどうも,多田が福永と東京コラリアーズの演奏を気に入らなかったことが原因らしい。

以降の、作曲者と演奏者の曲に対するイメージの差についてだった。これは、はっきり言って多田武彦が悪い。今やあまりにも当たり前の曲過ぎて意識されないかも知れないが、「水に映つたそのかげは」からの痛切な表情は、演奏者にとってはそれを中心に曲を考えない訳にはいかないものだ。

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詩は、実のところしょうもないと言うか、他愛のない話で、御者と客の会話というだけのものだ。観光案内から始まり、客が通りがかりに目にするものについて尋ね、御者が答え、そうしながら柳河の街に入っていく。その程度の話でしかない。

作曲者が大仰な表現を望まなかったというのも、詩に対してこのような認識があったのではないかと思う。つまり多田武彦の言い分は詩に対する見方として妥当ではあっただろう。

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確認として書いておくと、曲は詩の構成を反映して御者の科白はテノール、客の科白はバスが歌い、テノールのソロによるナレーションが挟まるようになっている。最初の部分の形がソロを挟んで繰り返され、メロディーがバスに移り、「水に映つた」の場面が入って、再び冒頭の形が戻り、ソロが入って終結部の「夕焼、小焼」となる。

「水に映つた」から冒頭の再現の部分の強烈さは明らかだろうが、詩との対応としてはそこまでの強度の必然性はなかったと思える。その表情の深さは演奏解釈を侵食し、歌のあらゆる部分に何かしら含みをもたせた歌い回しが流通する状況をもたらした。「夕焼、小焼」なども、詩の中ではさして深い意味もないだろうところ、娘の不幸との対比が勝手に生じることとなっている。これらは作曲者の意図を越えたことなのではないか。多田武彦は、自身のイメージを曲とするところで失敗をしたのだろう。

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『柳河』の中間部の深く切実な表情は強烈な魅力を放っている。この情感はおそらく「多田武彦らしさ」と思われているものの重要な一部だろう。が、おそらく、『柳河』でのそれは多田武彦自身の詩の読みと表現の意図からはみ出た形で曲として実現された。そのずれが演奏者の意図と作曲者のイメージとの差になったのではないか。

すると、その先の疑問が生じてくる。それはただ『柳河』だけのことなのだろうか?