『再会』(『光る砂漠』)

この曲の練習をする夢を見た、というだけの話なのだが。学生時代の合唱団で、どこともつかないホテルで合宿をしている風だった。夢なので順を追って物事が起きるのでもないのだが、目が覚めても『再会』の合わせをしている場面と、勇んで練習場に入ったら女声のパート練習をしていてどこに行けばいいのか戸惑った場面があったのを覚えている。夢の中では曲にも団にも何の不安も疑いもなく、そのようにして歌っていれば音楽はただ美しく自然なものだった。

ところで、自分にとって『再会』を含めた『光る砂漠』はそれほど身近な曲ではない。実演に接したこともあるが特に良いとも思わなかったし、東京混声合唱団の演奏のCDも所持していてそれなりに聴いてはいるが、いまでもそれほど納得できてもいない。

奇妙なことながら、目が覚めた後には結局、曲のことを夢の中のようには感じられていない。なぜこの曲だったのかと思うし、感じ方の違いを不思議にも思う。

一つには、夢とはいえ演奏に加わっていた、ということがある気がする。学生の頃を思い返せば楽曲の感動や美しさを疑いながら歌うということは少なかった気がする。当時の若い声、ということもあるし、そもそもアマチュア合唱人にとっては演奏が最も大事な曲の鑑賞だから、ということでもあるのだろう。

もう一つ、演奏が鑑賞でもある、という見方から言えそうなことがある。『光る砂漠』は遺稿詩集によるということや、キリスト教的な内容、合唱とピアノの関係等、作曲者の言い置いたことがありすぎる。聴くばかりだと、そうした言葉に対して構えてしまう面がある。むしろまず音を鳴らし、その先に萩原英彦の言ったことが分かればよし、分からなかったとしても仕方がない、という方が早道なのだろう。

『再会』の曲について少しだけ。構成はシンプルだが和音の色合いが明快でない、地味な曲という印象がある、というか『光る砂漠』の9曲は総じてそんな感じで聴いていた。が、こうした印象は歌う立場になれば無意味になる。演奏の瞬間ごとには、地味も何もその瞬間の和音があるだけで、その和音の呼び起こす情感を感じることしかない。そうして演奏の内側から聴けば、『再会』の音の広がりと豊かな表情が直に感じられるようになるのだろう。