を読んで思うことの2つ目として、多田武彦の曲についての印象を書いてみたい。
以前にも書いた通り、多田作品への関心は薄く、触れた作品も多くない。組曲を通して歌った曲は数曲にとどまり、単曲を抜き出して歌った数も多田武彦の作品数からみれば数にもならない。さらには男声合唱に熱心に取り組んでいた時期もかなり以前になり、接した曲も作曲者の比較的早い時期のものがほとんどとなっている。
こうした立場ながら、一応「多田武彦らしさ」とでもいうような感覚・印象を受ける曲もある。そのような曲を挙げて、そこに何を感じているかに触れてみたい。
『富士山』の「作品第肆」、『雪明りの路』の「春を待つ」、『追憶の窓』の「雨後」
大げさに言うと、この3曲が自分にとっての多田武彦の価値ということになる。これらの曲のもたらす情趣には否応なく心をとらえるものがある。それほど複雑な曲とも言えないのだが、郷愁のような、懐かしさのようなものが痛切に感じられ、個人的にはそれにやや厭わしい気持ちもあるのだが、それはこの感覚がどうにも逆らいきれないものとして感じられるからだった。
『わがふるき日のうた』の「湖水」、『草野心平の詩から』
この辺りには、先の3曲とはまた別の感触がある。日頃の情感からは離れた、共感では捉えきれない間合いがあるように感じられる。詩も曲も、ストーリーではないというか、情感の落としどころに向かうようには作られていないように思われる。それが、聴いた後にどこか宙吊りにされたような印象を残す。
『雨』
言わずと知れた、といった組曲ではあるが、案外と厄介な曲でもある。第1曲以外は割合シンプルな曲となっており、終曲以外は表情もやや明快でない。「十一月にふる雨」と「雨 雨」をどう考えるか、という問題もある。
とは言え多田武彦の代表的な作品であり、多田武彦に求めるものを突き詰めると終曲の「雨」に行き着いてしまうような印象がある。