宗左近「鏡の雲」

三善晃自身も言及しているように、『詩篇』には「花いちもんめ」の歌詞があるのだが、これは宗左近の詩「鏡の雲」によっている。

「鏡の雲」を含む宗左近の詩集『縄文』は読んだことがないのだが、近所の図書館に『現代詩文庫127 続・宗左近詩集』があり、『縄文』からは荻久保和明が使用した「行進」と、この「鏡の雲」が採られていた。

原詩と『詩篇』を見比べると、三善晃が使用しているのは一部の詩行だけとなっている。例えば原詩の冒頭は

毀れた高射砲が射撃し続けている

今日もまた夕映えにむかって

と始まるがここは使われておらず、以降11行目まででの内では3行目の

空が沈んでゆく 海を追って

だけが採られている。この後に「花いちもんめ」が出てくるのだが、『詩篇』の歌詞からは思いもよらない行が引き続く。「啓ちゃん」「匡ちゃん」「哲ちゃん」「ゆりちゃん」「章ちゃん」と、5名が出てくるのだが、原詩から最初の2名の部分を切り出してみると

  啓ちゃん もとめて 花いちもんめ

 

峰岸啓三 レイテ島山奥で飢え死した

     帝国陸軍歩兵伍長 二十五才

 

     ふとっているか 火炎樹の目玉

 

  匡ちゃん もとめて 花いちもんめ

 

上参郷匡 瀬戸内海に墜落事故死した

     海軍予備飛行中尉 二十四才

 

  ゆれているか 等高線の目玉

 となっている。他の3名についても同様で、本名やどのように亡くなったかなどがそのまま書かれている。

他に『詩篇』に用いられている詩行として

どうしてそこはここではないのか

どうしてここはそこではないのか

 や

そこはここではないにしろ どうしても

ここはそこではないにしろ どうしても

の対となる行と、最後の

きみたち 鏡の底にいるのか

があり、さらに多くの使われていない行がある。

詩篇』では章題「はじめとおわりの・鏡の雲」でこれらの歌詞を歌った後、終章の「おわりのないおわり・波の墓」に入るのだが、その後に再び「はじめとおわりの・鏡の雲」と題された部分が現れる。この部分も先と同じ「鏡の雲」の詩行が用いられているのだが、

啓ちゃんもとめて 風いちもんめ

匡ちゃんもとめて 波いちもんめ

等、花いちもんめではなくなっている。これらの言葉は原詩の後半に、次のように現れる。

啓ちゃん もとめて 風いちもんめ

  レイテ島 風よおこれ

  雲あおぐ 目玉のうえに

  (きみ 革命 夢みてた)

 

匡ちゃん もとめて 波いちもんめ

  瀬戸内海 波よさわげ

  雲あおぐ 目玉のうえに

  (きみ もう美学者だった)

これらもまた5名分あり、前半と対応している。

原詩と三善晃が抜き出したものとの間には違いがあり、原詩を読み直すことで三善晃の意図も見える部分があるのではないかと思う。