「ある肖像」(『三つの夜想』)

『三つの夜想』、特に「ある肖像」については、長年聴き続けながら、ずっと捉えづらい感覚を持ち続けてきた。が、先日 youtube で St. Cecilia Vocal Creators の演奏を聴きながらふと、歌い始めの半音の上行をどのような声で聴きたいか、と想像してみたとき、不意にこの詩と曲のことが分かったと感じられた。

4小節の前奏に続く5小節目、「私は知っている」と歌い出す部分はdivisi のない3声で、アルトはC、メゾソプラノがEs で歌うその上で、ソプラノがGから半音ずつ上行していく。旋律は明快に上昇していくことができず、圧迫されているような、くすんだ響きのする重苦しい1小節となっている。

分かったというのはその点だった。ここに表されているのは、「私」が仔狐を恐れていること、仔狐から受ける威圧感だろう。

「仔狐」については気分くらいは分かっている、と思う。自身の内にある、”真実”(「淡いものに」)と美意識が結び付いたようなものだ。それが、「罪」のある「私」に死を迫ってくる。「あのひとの死にざまは すばらしい」というのは「お前はなぜそのように死なないのか」ということだ。「私」が仔狐を恐れるのは、直面すれば今でも迫られるままに死を選びかねないからだ。

「肖像」とは、仔狐が「何も知らない」(同じく「淡いものに」)時の自身の姿であった、ということだろう。「何も」、つまり「私の罪」を知らない時期に、人は仔狐のように、激しく残酷な感情をもって生きることの価値を裁断する。そうして人生の時間を重ねていく内に、自分自身もまたその裁断に適わないことに気付く。仔狐と「私」は分離し、仔狐は「私の罪」のために死ねと迫る。

詩が語るのは、そのさらに後、なお生き続け、時を重ねた先の事になる。生きることが罪と死への心情に懊悩しながら生きることと同じ意味になるだけの時間が過ぎたときには、もうその懊悩自体のためには死ぬこともできない。「私はもう おまえに飽きている」というのはそのことを示しており、その先に、死を求める仔狐に対して「私を/支えてくれる堅固な柱」(「或る死に」)が語られることになる。