「鏡の底」と「海の中の暁」

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詩篇』で扱われた詩の言葉について。「鏡の底」は「Ⅶ はじめとおわりの・鏡の雲」に「きみたたち 鏡の底にいるのか」と現れる。また、「海の中の暁」は「Ⅷ おわりのないおわり・波の墓」で「海の中の暁/暁の中の海」と出てくる。実はあまり考えていなかったが、「Ⅲ はじめのあるはじめ・夕映え」の時点で「夕映え」だったことから、なぜ「暁」なのか、と思い、すると「なぜ雲は鏡なのか」も分かったような気がした。

原詩『鏡の雲』には、次のような行がある。

夕映えは溶けている鏡

抱きあう空と海の鏡

「抱きあう空と海」は「空が沈んでゆく 海を追って」に対応する。太陽が沈むときに、一時海が輝き、また雲も照らされて輝く。これを、海の中に暁が現れた、と見做し、雲の輝きはその鏡像と見做す。「溶けている」は雲の不定形を示す。

なぜ海の中に暁が生じるのかというと、「きみたち」がその向こうにいるためで、こちらが暮れて向こう側が明ける、という図式になっている。このあたりは『縄文連禱』の理屈とも近い。

「きみたち」の姿は水平線に隠れて見えないが、雲が鏡ならそこに彼らの姿が映っていないか、という願いが、「きみたち 鏡の底にいるのか」という言葉になる。

三善晃の文章「弧の墜つるところ」では『詩篇』の作曲に関連して、

こうして「レクィエム」の弧は、「わたしのなかの生者」という鏡が写したものでしかない遠方を過ぎたことになっただろうか。

と書いている。この「鏡」も同じことで、「きみたち」とはまずは「啓ちゃん」「匤ちゃん」他、宗左近の「わたしのなかの生者」であるわけだが、「わたしのなかの生者」と呼べる誰かがいることで詩の構図が共有される。もう少し言えば、「わたしのなかの生者」は無に帰らない死者のいるところが「遠方」であり、その遠方が「鏡の雲」に映らないか、ということになる。

都響の演奏会の感想で触れたが、『詩篇』の最後の部分では残照のきらめきが徐々に消えていくという印象を持った。ここは個人的には今回の貴重な発見だった。この表現は海の日没の映像的な表現だがそれだけではなく、例えば『縄文連禱』の「宇宙の琥珀」「宇宙の瑪瑙」のような詩句と意味的な類似があるように、宗左近の発想とも通じている。