『詩篇』について

混声合唱管弦楽のための 詩篇』の楽章構成について、ナクソスNHK現代の音楽アーカイブシリーズ「三善晃」』では次のように表記している。

  • Ⅰ.はじめのはじめに・雲
  • Ⅱ.はじめのないはじめ・天体
  • Ⅲ.はじめのあるはじめ・夕映え
  • Ⅳ.おわりおないはじめ・人形
  • Ⅴ.途中の途中・滝壺舞踏
  • Ⅵ.はじめのあるおわり・夕焼け
  • Ⅶ.はじめとおわりの・鏡の雲
  • Ⅷ.おわりのないおわり・波の墓
  • (Ⅷ.はじめとおわりの・鏡の雲)

三枝木宏行「《レクィエム》から《詩篇》へ」には、「はじめのはじめに」等の言葉が詩集『縄文』の章区分によることや、「鏡の雲」の詩による最後の部分が楽譜上では区分されていない一方歌詞の記載では区分されていること、さらにそれが初演時のプログラムでは(Ⅶ)とされ、一方出版された楽譜ではⅧが振られていることなど詳しい解説があり、歌詞の区分に基づき全体を9楽章とした構成図が描かれている。

特徴と言えるかどうか、また楽譜を見ないと正確には分からないが、語りや音高の指定のない部分が多くあり、特に楽章間に置かれていることが多い。ⅣとⅤの間は音高含めて記入されていると思うが叫ぶような歌い方になるので意識されず、またⅧと最後の部分の間も指定されているようだが逆に音の動きがなくただの語りにように聞こえるので、これも合わせれば各楽章の間に語りが挟まると考えることができるかも知れない。

歌詞について

詩篇』の歌詞については「宗左近『縄文』による」となっており、詩集は見たことがないので原詩を確認できたのは一部にとどまっている。以前に扱った「鏡の雲」

宗左近「鏡の雲」 - tooth-o’s diary

と、荻久保和明も取り上げた「波の墓」だけなのだが、これだけでも三善晃が詩を大胆に編集しているのが分かる。上に上げたナクソスのCDでは、その編集された歌詞が載せられている。

正直なところ『詩篇』の詩はなかなか読み解けないのだが、所どころ分かると思える部分もある。

「夕映え」は「唇ちぎられて/瞳えぐられて/むしられて瞼/頬はぎとられて」と始まりグロテスクな印象を持つが、先を読むとこれは「きみたち」が姿形を失って「透明」「くれない」になった、という意味になる。さらに先、「海の 空の 墓きみたち/きみたち 夕映え」の行が異常なことを言っている。「透明」「くれない」、すなわち「夕映え」が「きみたち」である、ということをそれまで語ってきているのだが、ここでさらに言うのは「きみたち『が』海と空『の』墓である」ということだ。

もう一点、「鏡の雲」について。

■ - tooth-o’s diary

「花いちもんめ」は誰でも知っていて、『詩篇』の話では大概持ち出されるが、対する「風いちもんめ」「月いちもんめ」等についての話は見かけない。この言葉の意味だが、まず「花いちもんめ」、自分が生き延びて、自分の生きている世界を得た、その引き換えに友人たちを売り渡したということであり、それに対して「風いちもんめ」、今度は風を、自分の生きる世界を売り渡したなら、友人たちを再び取り戻せないだろうか、という願いを言っている。

翻って「夕映え」の「きみたちが海と空の墓である」というのは、自分の世界、海と空を失った、「きみたち」のもとに埋葬した、「そこ」でない「ここ」を「そこ」にするために、ということを言っている。

曲について、思ったことなど

詩篇』について、作曲の意図は三善晃がはっきりと書いている。その線に沿って考えると、「鏡の雲」と「波の墓」の理屈は決まってしまうし、聴く際にも影響はある。

話とすれば、まず「鏡の雲」で「花いちもんめ」の取引と、「きみたち」が「鏡の底にいる」ことが語られる。次の和音は「鏡の底」から響き出すので、「波の墓」は「鏡の底」にいる「きみたち」の表現ということになる。ここで音楽が「夕焼け空」から高潮するあたり、「調性音楽」で一まとめにはできないだろうが、ともあれ「鏡に夢を」で場面が急転し、「鏡の底」から弾き出される。「鏡の雲」は「風いちもんめ」に移り、打楽器が曲の冒頭を回想する(「はじめとおわりの」に対応する)。音が抜け落ちるようにして歌だけが残るのは風、波、雪と投げ渡していくことを表すが、ほとんど音楽自体が崩落していくような表現になっている。

別の話として、「天体」「夕映え」、また「夕焼け」から「鏡の雲」の移行時に、緩やかな音楽がテンポを変えずにリズムが分割されて急激に激しさを増すようになっている。初演時の歌いぶりは常に必死の様子なのだが、この緩やかな部分は「別れ」の前や、「きみたち」に通じる部分であり、甘美であったり優美であったりして良いのだろうと思う。