言葉と旋律の間

歌詞と旋律は単に合ってれば優れているということでもなく、作曲家はその間に齟齬を設けて、音と言葉の間の距離感に意味を込めたりする。林光のメロディーはどことなく調子はずれな感じがあって、そこに生じる違和感に批評的な感覚が仕込まれている。この感覚は寺嶋陸也の『みち』あたりに引き継がれているように思う。
三善晃の場合は、求められる視点や心情があり、違和感がそこに至る手がかりになっている。『交聲詩 海』の第二部分の「すいへいーーーせん」の伸ばす音は普通の言葉としては素っ頓狂にも感じるが、音画としてだけではなく受け入れることができるはずでもある。
逆というのか、『沈黙の名』の「それらの小さなやさしい名が/彼女らを愛に誘うだろうから」の部分は、滅多にないほど言葉と旋律と心情が密着して、聴き手の意識を引き込む。
重要なのは、これが技術的に達成されていることだ。この部分はテノールとソプラノの間で八分音符1つ分ずれたカノンになっていて、言葉とのリズム関係では最初の2小節はテノール、その後はソプラノが自然な配置になっている。奇術じみた巧妙さで、意識に上る旋律がすり替えられる。
三善晃には、技巧を通じて聴き手の心を奪うこともできたが、それを野放図には振り回さなかった。『地球へのバラード』の自分にとっての意味はこういうところにある。