「反戦」三部作

三善晃の三部作の頭にどのような言葉を付けるか、という話が昔からあるようで、「生と死の」など見かけたことがあるし、『レクイエム』のピアノリダクション版では前書きに「合唱と管弦楽のための三部作」と書いている。

今回の東京都交響楽団の演奏会では「反戦三部作」としており、このことについて「三善先生は『反戦』なんて言わない!」という人が特に三善晃のファンなどにそれなりにいるのを観察している。心情的には自分もそちらよりなのだが、実のところこの件については既に結論は出ている。

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日本伝統文化振興財団のブログには、2008年の「三善晃作品展」のパンフレット作製に際し三善晃自身が「反戦三部作」としたことが書かれている。「三善晃」で検索してひっかけたことがあるので、自分は割合早い時期にこの文章も目にしていた。なので心情は心情としてこれらは「反戦三部作」とするよりない、ということにはなっている。

なぜ「反戦」が不快かというと、なんらかのイデオロギーや政治運動の臭いがするからだろう。この言葉は何か良いことを言っているようだが現実的な内容がなく、反論できない雰囲気だけを作り出すところがある。それは三善晃の言葉と思うには似つかわしくない、という気がやはりする。

なので「三善晃は『反戦』なんて言わない」派として次に考えるのは、三善晃がこの言葉を使った意図、思いは何か、といったことになる。例えば三部作は三善晃を紹介するありとあらゆる場面で言及されるが、「反戦三部作」としたのは2008年のことである、というのは不思議なことに思える。そのことに、何か汲むべきものがあるのではないかと考えてしまう。

そうしたバイアスの下で見るとき、気になることが3つある。第1は『生きる』の音の印象、第2は『レクイエム』『響紋』のピアノリダクション版、第3は管弦楽作品のCDの発売になる。

『ピアノのための無窮連祷による 生きる』という曲を初めて聴いた時、情緒を垂れ流しにした、ひどくだらしない曲という印象を受けた。今でも聴くのにやや辛いところがあるこの曲が、1999年の大みそかから2000年の元旦にかけて作曲されたということなのだが、この後の三善晃の作品はどこか身も蓋もない感じがある。

『レクイエム』や『響紋』を改めて世に出そうとした意味は、『響紋』ピアノリダクション版の前書きに書かれている。三善晃が21世紀の先行きを危ういと見ていたことは確かだと思える。そして、何を書こうとしたかではなく、何として聴かれているかについた。

カメラータ・トウキョウのCD『三善晃の音楽』は東京フィルハーモニー交響楽団の2003年から2004年の3回シリーズの録音で、プロデューサー・ノートによれば演奏された当時には三善晃はCD化を断っており、翻って三善晃の方からCD化の打診のあったのが2007年であるという。

これらを切り張りしてストーリーを作り出すことには自分の納得感以外の意味がないのだが、重ね合わせると「反戦三部作」とした三善晃の心情にも多少は近づくような気がする。