三善晃と『五月』の詩

音楽之友社の「グリークラブ・ソングセレクションⅠ」に三善晃男声合唱曲『五月』が収録されている。早稲田大学コール・フリューゲルの演奏を youtube で聴くことができる。

グリークラブ・ソングセレクションⅠ - 音楽之友社

五月 - YouTube

「日本男声合唱史研究室」のとのとの氏が、この曲が作品リストに掲載されていないことについて記事を上げ、三善晃がこの曲を破棄したのではないか、と推測されている。

三善晃作曲男声合唱曲「五月」について | とのとののブログ

そういうことだろう、という印象はある。

この『五月』の詩についてだが、今回出版された男声合唱曲が1964年、「音楽の友」1965年8月号掲載とされる「もしかして」が1965年、レコード「三善晃の音楽」に付けられたらしい「一瞬の望見」が1970年、テノールのための歌曲『抒情小曲集』が1976年、ついでに「一瞬の望見」を書籍『遠方より無へ』の冒頭に置いたのが1979年、ということで、長い期間、常にどこかで意識されていたように見える。とのとの氏が書かれているように、この詩は三善晃にとって重要なものだったと考えられる。

では、それはどのようにか。三善晃にとってこの詩は何だったのか。「一瞬の望見」では、詩に続いてこのように書いている。

七月末のいま、私はこの夏の焉りを見ない。

ここの繋がりを見るなら、その意味は「この夏が終わらないうちに もしかして死んでしまったら」ということだろう。つまり、三善晃はこの詩の中に、自殺にまつわる自分の意識を見ている。以降の「一本の縒」等はここでの「もしかして」のからくりを説明しているが、その語りは1965年の「もしかして」よりも切迫している。1965年の文章は「もしか」の不安を語るのだが、1970年の「一瞬の望見」は次のように言う。

一本の残された縒は私に、そのときの情意の輪郭を示し、私という片晌の形骸をすくいとり、私の貧しい巣になった。

ことが現実になるまでの不安を飛び越えて、現実になったことによって自分の心情や意図を知るというまでに至っている。

自殺への意識ということでは、「弧の墜つるところ」(これ自体は1985年の文章)に決定的な記述がある。1972年の、『レクイエム』の前後について

72年1月2日、「レクィエム」のデッサンはテクストの最後の部分・宗左近さんの反歌「たまきわる いのちしななむ ゆうばえの ゆるるほなかに いのちしななむ」に入ったが、それから24日に脱稿するまでの約3週間、日記には、その作曲そのものの難行よりも、自分の願望としての「いのちしななむ」ことしか書いていない。

そして

今、そのようなことを敢えてここに述べるのは、「レクィエム」を書き終えたとき、それによって死者たちと終に仲間になれない自分の輪郭を描き終えてしまったことに気付いたことを言いたかったからである。

前者には三善晃の自殺への願望が書かれている。「この夏の焉りを見ない」も「もしかして死んでしまったら」も、そもそもこの願望が下敷きにあることに依っていた、と考えられるだろう。そして後者では、三善晃自身の「もしかして」「一本の縒」のなかに自殺が含まれていないことが確信されている。

男声合唱の『五月』は前者の状況の下に書かれ、『抒情小曲集』はそれを過ぎた後に書かれている。なぜ男声合唱曲は隠され、歌曲の『五月』を書き得たのだろうか。

後年、198年の作品『ふるさと』(『縄文土偶』)初演時の文章「未分化の原点で」に、次のように書かれている。

謂わば、男声合唱という私にとっての広い未分化の領域は、まだまだ表現への分化を果たしていないのであり、イメージはその原点にとどまっていることになりましょう。音楽とは、その原点からイメージが表現として分化され、再びその原点に戻って未分化の原風景を描く芸術です。

詩と、自殺への自身の意識、願望が密着していたために男声合唱曲は望ましくないものとなり、その願望を自身から離れたものとして見ることが可能になったことにより、この詩による作曲が成り立ったのだろう。