都響の三部作に関する文章3つ

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このコンサートに関係する文章を三つほど見かけ、どうにも気分が悪くなったので書いておく。

まずは片山杜秀。紙面で読み、完全に文章が一致しているかは不明。

三善晃が再会したかった「分身」とは 片山杜秀さんが聞く反戦三部作:朝日新聞デジタル

作品と三善晃自身を諸共に貶める馬鹿げた話、と思う。偶然亡くなった身近な人間がいれば、偶然死ななかった身近な人間もいるだろう。その現に生きていた身近な人間をそっちのけでその子のために自殺を考えたり延々苦悩していたなど、どれだけの仲良しだったという話なのか。その関係性は新たにでっち上げられたミッシングリンクで、そこを具体的に繋げられないならば聴く者にとっては所詮単なる赤の他人の死でしかない。赤の他人の死は極一部を偶然に拾い上げる他はただ無視するよりなく、そのことで人は生きて生活していられる。「三善晃の目の前で」というのはその無視している人たちの中から特に取り出される根拠として足りるものだろうか。片山杜秀の書きようは、三善晃とその作品を現に人が生きている、生きていたということから遊離したものにしてしまう。

 

2つはメルキュール・デザールから。まず齋藤俊夫の演奏会評。

東京都交響楽団第975回定期演奏会Aシリーズ【三善晃生誕90年/没後10年記念:反戦三部作】|齋藤俊夫 |

身に覚えのあるような文章で、同属嫌悪のような忌避感がある。目の前で演奏されているのに実質聴いていなかった事態に「死者」「生者」「戦争」等々の言葉をつなげて意味を付けてしまう、それによって聴きに行ったことに価値があったことにしてしまう、というのは三善晃の曲が演奏されるときに方々に散見される振舞いであり、自分でも心当たりがあるが、この文章もそうしたものに見える。実際、齋藤氏は音としては何を聴いたのか、「絶叫」と「童謡」と「消え去る」くらいしか分からず、本当にそれだけならば聴かずに書くのとあまり変わらない。思想的な部分は三善晃の文章をそれほど押さえているわけでもないようであり、それは構いはしないから何を聴いたかを書いて欲しい。

 

そして、この文章の末尾にリンクがある丘山万里子

カデンツァ|ヒロシマ―戦争と人間―|丘山万里子 |

こんなことを言い出す。

私もまたこの三部作を一度に生で聴くのは初めてだった。
そうして驚いた。どの作品にも、苦悶酷烈の叫びと音響の間からふと浮かび出る美しい旋律があることに。これまで聴いた実演からも、CDからも聴き取ることのなかった三善の「うた」が、そこにあるではないか。

「今まで耳にものを詰めて三善晃の音楽を聴いてきました」と公言してしまう。つまり、耳にものを詰めて40年やってきたし、三善晃との対談もそのままやったということになる。今回にしても一面で関係者であり、演奏に対し調子の良いことを書き立てているだけなのではという疑いを捨てきれない。そしてこの文章全体は、自分が好き勝手なことを書くためのツールとして三善晃を使っているだけに見える。最後に『その日-August 6-』を引っ張り出すのはその証明というのに近い。