『ぼく』について、変な話

『ぼく』について、しばらく前にいろいろ考えていた時、<このほしに>の、ピアノが初めて入ってくる音が、すでに懐かしさのような感じを持っているなぁ、と、このときは単に思った。
木曜日、風呂に入っている最中に、あれ、と思った。「そしてすべてのまぼろしがきえさり」というのは一番はじめからこの直前までの全てを指しているのではないか。というのは、<このほしに>からすでに懐かしさが付随するということはこの場面自体が思い起こされているものである、ということだから。
するとこの詩を語る「ぼく」の現在とは死の直前になる。<PROLOGUE>を生誕の前だと長い間思っていたが、これは死に至る昏睡ということになる。

この見方では、PROLOGUEによるEPILOGUE<ふたたびよるへと>は、思い起こされている「ぼく」がまた昏睡に至った場面になる。思い起こされた「ぼく」はまた昏睡の中で自分の生を思い起こし(「かがみのなかへふみこむように」とは実際の生と思い起こされた生の関係のこと)、これがフラクタルのような状況をつくりだす(<そのめのなかに>)。

<PROLOGUE>の、触感みたいなものに愛着を覚えてきたが、むしろその論理性が気になる。<PROLOGUE>は昏睡の中で生を振り返らせる精神の働きの音化になるはず。