『ぼく』『あなた』『じゅうにつき』(2)

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「複合唱的な性質が後退していく」と書いたが、このことについて詩の側から見るとどうなるか。

『ぼく』の場合、詩は人生の場面が「もういいかい」によって区分される構成となっており、その両端に人生の内部ではない場面が現れる。この構成が編成の多様性を許容する。それぞれの部分にある程度の独立性があるために、むしろ違いを設けることが必要になる。三善晃は「人生の内部ではない場面」の論理を読み出し、<PROLOGUE>、<ぼくはうまれた>、<もういいかい>、<ふたたびよるへと>、<そのめのなかに>、<ぼくはしんだ>の部分を作曲している。人生と、別の人生、人生の外側、というような複数の層が詩には含まれ、このことがまた編成の幅を要請する。

こうした観察から、三群のため作品に用いる詩としては、内容と外形の複雑さと、それぞれの場面や要素を切り分けられる構成がをもつことが望ましいというか都合が良いと考えられる。詩集に含まれる6篇を見渡して、『ぼく』の詩がこのような性質を持っていたことからこの詩による曲が作られたのではないかと思う。『あなた』『じゅうにつき』はこう言っては何だが行きがかり上、ということではなかったか。

上に書いた性質を意識して『あなた』と『じゅうにつき』の詩について見なおしてみる。三群のための詩として具合の良いものを真っ先に取り上げたと考えれば、他の詩はそれよりは適していないと考えることができるだろう。

『あなた』の場合、「あなたはだれ?」が詩を区分し、また「わたし」の現在の思索、「あなた」と共にいた思い出、「わたし」の想起の中の「あなた」、「わたし」が想像するしかない「あなた」の知覚や記憶、といった多層性がある。が、「もういいかい」が各部分を切り分けたのと異なり、「あなたはだれ?」は諸々の展開を「わたし」の思索へと引き戻し、各部分を結び付けることになる。多層性は詩の構成と直結せず思考の流れとして流動化する。この流動性の結果、三群を明示するためには確固とした形が必要となり、その分単純になる。各群が順に現れる、または特定パートのみが三群の形で現れる、といった形が中心になる。

『じゅうにつき』については、対等な12の場面、それに最終部が最初の部分に回帰する、という以上の構造を与えようがない。この時の各場面は意味的に連結されておらず、ここで三群の編成を複雑に展開すると単に散漫になってしまう。三群への書き分けを意図して作曲を進めた跡は見えるものの、その形で出版されなかったのは、編成の必然性がないことが最終的には問題になったのだと思う。

結果として、『じゅうにつき』は三善晃の作品のなかでもかなりの難物となった。divisiの多さから少人数での演奏は難しく、12曲で28分というのも曲数が多く、また1曲毎は長くなく全体としては長いため、近年のコンサートでは、あるいは合同演奏としても、扱いづらい所がある。『ぼく』『あなた』とセットで扱うには編成が一貫せず、『ぼく』『あなた』だけの方が座りが良いような気がしてしまう。総合的には、合同演奏の規模感と小曲的な個々の曲の長さや歌詞の内容が食い違ってしまう。

とはいえ結局、12曲全体をきちんと演奏するのがあるべき姿には違いない。相応の規模と実力のある団体による演奏が待たれる。