『三群の混声合唱体とピアノのための ぼく』について

普通に想像する場合、意識は死に到達しない。幽霊がいる、あるいは道端の小石に意識があるというのでなければ、意識があるなら生きているのであって、意識が死を捉えたとしてもその時はやはり生きているはずであり、ならば捉えたそれも実は死ではないという理屈になる。このことを考えた時、奇妙な問題が発生する。「私」というこの意識は本当に死ぬのだろうか。あるいは、どのようにして死ぬのだろうか。

 

谷川俊太郎の『ぼく』の詩の場合、「ぼくは/しんだ」と語ってしまう。先の例では幽霊がいるというのに近い。この詩ではさらに物心つく以前や、さらには眠っている時間まで語られていて、何らかの理屈はつくかも知れないがここではとりあえず詩なので、というだけでさておく。

詩は、誕生と死が対称なように配置されている。「ぼくは/うまれた」から始まり、生の場面が描かれ、最後は冒頭の詩句が折り返すように現れて、「ぼくは/しんだ」で終わる。ただし、合間合間に「(もういいかい/まあだだよ)」が差し込まれており、それが最後に「(もういいかい/もういいよ)」となり、これが本当の最後の行となっている。「(もういいかい/まあだだよ)」「(もういいかい/もういいよ)」は死から、または死への呼びかけという風に見える。(というのも意味不明の感はあるが)

三善晃の楽曲は、詩語の対称性とは幾分違った作りになっている。言葉を持たない<PROLOGUE> から始まる音楽が、<ふたたびよるへと>、詩で言うと「ぼくそっくりの/こどもが」の部分の語りを伴って再現され、その再現の先、「そして/すべての/まぼろしが/きえさり」で全体のエンディングに入る。 この構造、特に<PROLOGUE>とその再現が、「私(意識)の死」という最初の問題に対応している。

<PROLOGUE>は「ぼくは/うまれた」、つまり誕生の前を描く。ここに言葉がないのは、意識がないという意味だろう。因みに詩の方で「(もういいかい/まあだだよ)」が「ぼくは/ねむった」の次から現れること、また曲では<もういいかい>の部分で「ぼくは/ねむった」からの言葉と「(もういいかい/まあだだよ)」が重ねて歌われるのは、眠りが意識の消失を伴い、その意味で死に近づくことだからだ。

詩の内容をみると、<ふたたびよるへと>までに人生の粗方は終わっている。<PROLOGUE>が意識の無い時点を表していることから、<ふたたびよるへと>での<PROLOGUE>の再現は、まずは死の前の意識の混濁、消失を表していると考えられる。が、<PROLOGUE>と同じということは、再び<ぼくはうまれた>に接続することもできることになる。<PROLOGUE>自体もまた、<そしてそれらがすぎさった>の続きであったかも知れない、ということにもなる。三善晃が『ぼく』の楽譜の前書きにおいて

生/と/死ではなく、死生死のような流れ…それがこの曲の持続であってほしいと希っている。

という意味も、この見方から理解できるだろう。意識の無い状態を介して、生は次の生へ、さらにその次の生へと引き続いている、ということが、<PROLOGUE>と<ふたたびよるへと>での再現により描かれている。

だが、ここでの「死」は実のところ眠ることとあまり変わらない、と考えることができる。意識の消失の先に覚醒がある、という風に整理するならこれらは似たものであると、あるいは夢の世界のように思うならばほとんど同じものとも見なせる。

この「死」は冒頭に触れた意味とは異なっている。そのような死を想定するのは、<ふたたびよるへと>の語りに「ぼくそっくりのこども」が現れ、そこから詩と音楽がこの輪を脱するからだ。

<そのめのなかに>で、「ぼく」の目の中に別の「ぼく」が、さらにその目の中にまた別の「ぼく」が、と見出されていく。この構図は、この「ぼく」もまた別の「ぼく」の目の中にいるだけなのではないか、という問題を生じる。死の間際に一生を走馬灯のように思い出す、という話が本当かどうか知れたものではないが、「そのめのなかに」というのはそうした話を思い起こさせる。

この見方から、先の意識の消失を介した生とその次の生、という図式も違う形で見えてくる。「その次の生」とは、冒頭で触れた意味の、『ぼく』の終結部の意味の死を回避するために「そのめのなかに」見られる生を生きる、という、先の「走馬灯」を見させる精神の仕掛けのようなものとなるだろう。 これが働き続ける限り、「走馬灯」に見られる「走馬灯」に見られる「走馬灯」としての「ぼく」の生が継続することになるが、この図式の全体が<そのめのなかに>において看破され、起点としての、その前に「どこともしれぬ/ところ/いつともしれぬ/とき」しかない生、「走馬灯」でない生が発見される。

 

冒頭の話に戻すならば、『ぼく』において意識は消失を挟みながら、「起点としての生」での死を直視するまで、「そのめのなかに」移って生き続ける、ということになるだろう。『ぼく』の構造を考える内に、死についてのこうした奇妙な描像が自分には見えてきた。そのポイントとなる<PROLOGUE>の、消失した意識の働きを描くはずの音楽を書き得たことに、三善晃の恐ろしさを感じる。