『鳥』(『地球へのバラード』)

『私が歌う理由』、『沈黙の名』で、「私」が世界の外部であることとそれによる痛み(「故知らぬさびしさ」とか)が歌われて、次のこの曲で、その痛みから逃れようとする。
「RuRuRu」の部分は、空や虫などなどを「名づけない」ものになったことの表現として言葉がなくなる、つまり「鳥にされる」ということに対応している。で、詩が「死の中で」と言っているけれどもさし置くとして、鳥になってしまえば「世界に気づかない」のでもう痛くない、というわけで、ここまでの課題に対する解ではある。(けれども、というのが『夕暮れ』の意味になる)

聴いたことのある限りでは、『沈黙の名』までは聴かせられるのに『鳥』は退屈になってしまう、あるいは何とか聴かせようとして無理矢理感のある演奏になってしまうということが多いように感じる。これは上に書いた『鳥』が痛みの回避であることに関わり、「共感は痛みに対してするもの」という思いつきの由来の一部でもある。