『私が歌う理由』その2

 

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 「その1」では「なぜ繰り返すのか? そもそも繰り返しなのか?」と切り出した。これについて、観察した曲の特徴と考え合わせるなら、三善晃の答えはおそらく「繰り返しではなく、言い換えである」というものだろう。そしてなぜ言い換える必要があるのかというならば、それは「仔猫」では通じないからだろう。

この詩と曲の先には誰かがいる。それは「私」が、「私が歌うわけ」を伝えたいと思う「誰か」だ。

「仔猫」で通じるなら「仔猫」で終わって良かった。けれど、「誰か」には、「仔猫」では分かってもらえなかい。だから、言い直してみる。仔猫、仔猫やけやきのようなものたち。相手の経験にも訴えてみる。あなたが子どもの頃、立ちすくむしかなかったようなもの。

その全てが「誰か」には通じない。通じないから激昂の果てに言ってしまう。おとこ(子どもとの対比で大人の含意があるだろう)が目をそむけているしかないもの。お前がまさに今、目をそむけているもの。

だが、その言葉は「私が歌うわけ」が通じない理由そのものだ。「私が歌うわけ」は、「誰か」が目をそむけているものだ。であるならば、決して通じることはない。目をそむけて、決して見ようとしないから。

それに気づいて、口ごもり、ついには伝えることをあきらめる。『私が歌う理由』の音楽は、「私が歌うわけ」を伝えようとして、それが失敗すること、その必然の論理と感情を描き出している。「私が歌うわけは/いっぴきの仔猫」がなぜ鮮やかな答えなのか。それは今見た通り、これ以上「私が歌うわけ」に近づくことができないからだ。

『私が歌う理由』が表す「絶望」は何か。それは、「私が歌うわけ」は伝えることができない、ということだろう。もちろん歌が特権的なわけではないが、「私」が生きること、何かを伝えようとすることが失敗する必然ということだろう。このように見るとき、「私が歌うわけ」はそのまま「名づけられぬものの名」として、第2曲『沈黙の名』につながっていく。