未来に伝える三善晃の世界Ⅳ

ここしばらくで三善晃の作品を扱うコンサートが幾つも開催されていた。私事の立て込む中でほとんどを逃すことになったのは残念だったが、この演奏会は辛うじて都合をつけることができた。とはいえこれだけの曲を演奏するというのは普通にはない機会であり、またメモリアルイヤー的な集め方とは異なる選曲で、選ぶならこれ、という演奏会でもあった。

 

令和5年11月10日(金) 東京オペラシティリサイタルホール

  • 『ピアノ・ソナタ』(1958)
  • 『子守歌』(1987)
  • 『シェーヌ ~ピアノのための前奏曲』(1973)
  • 『アン・ヴェール』(1980)
  • 『ピアノのために ~円環と交差Ⅰ,Ⅱ』(1995,1998)

ピアノ 谷口知聡

 

 

『アン・ヴェール』は今回聴けて良かったと思う演奏だった。は曲の作りの見通しが良く、作品について納得する部分があった。『子守歌』をじっくり聴かせてもらえたのも良かった。『シェーヌ』も力演だったが、曲のことを思い知らせてくれるまでにはならなかった。

『ピアノ・ソナタ』は何故か、なかなか身近な作品にならない。今回は第3楽章の終盤でようやく気分が出てきたという感じで、そこに至るまでほとんどの時間はすれ違っているような感じだった。『円環と交差』は難曲をこなしたコンサートの終わりを見てしまったような緩みを感じなくもなかった。

全体的に、まだ硬い、というか、もっと身も蓋もなくて良いのではないかという印象が残った。三善晃の音楽は聴く側に難しさを感じさせる面もあるが、作曲者自身は別に難しくしようとしているのでも難しいつもりで書いているのでもないのではないかと思う。難しさは演奏する者と聴く者の側の作品の捉え方の問題で、であればより容易に、さらには自明に感じられる捉え方を追う方が早道ではないだろうか。

三善晃とピアノ作品(2)

tooth-o.hatenablog.com

1990年代最後の日、逝った友人たちを想いながらピアノを弾き続けているうちに、その音の流れのなかに谷川さんのこの詩の詩句が聴こえてきた。

曲集『木とともに 人とともに』の楽譜の序文に書かれた、この『生きる』の成立事情が興味深い。「慣れすぎた」というピアノに三善晃がどのように触れていたかが覗けるようでもあるし、結果的に合唱作品となったところに他の諸作品との異同を見ることもできる。そしてこの曲については、合唱作品としてはややだらしのない情感の垂れ流しという印象が個人的にはあり、一方 youtube などで見つかるピアノパートのみの演奏には子供のための作品との近さを感じる。

この序文、あるいは『三つの夜想』の楽譜の前書きなどにも見られるが、三善晃には心情のままにピアノを弾くことがあったようで、このことが「慣れすぎた」の実態の部分と考えられる。そのようにピアノを弾いていられることが、前回書いた「容易さ」になるだろうが、三善自身にとって、そのように弾かれた音は「作品」ではなかったのだろう。

では、「作品」はどのようにして成立したのだろうか。『生きる』の場合なら、『ピアノのための無窮連祷』ではなく『ピアノのための無窮連祷による 生きる』となることがなぜ必要だったのか。

三善晃の文章を3つ引用する。

謂わば、男声合唱という私にとっての広い未分化の領域は、まだまだ表現への分化を果たしていないのであり、イメージはその原点にとどまっていることになりましょう。音楽とは、その原点からイメージが表現として分化され、再びその原点に戻って未分化の原風景を描く芸術です。

かような小品は、色のある歌、であろうか。それは言葉のように語りもせず、包みもしない。歌は、あらゆる表現が表現として分化しようとする未分化なものとの接点――イメージの原風景に立ち還って、ただそれをなぞるばかりである。

少年時代からの多くの歳月に、白秋の韻律は私の情感を染め、それは影のように私から離れなかった。それを切り離すように――切り離すために――私は私の影を振り返った。

一つ目は『ふるさと』(『縄文土偶』)初演時の文章「未分化の原点で」、二つ目は『海の日記帳』の楽譜の前書き「色のある歌」、三つ目はCD『街路灯』のブックレットに載せられた『五つの唄』の解説。前2者は共通した言葉を使っており、イメージが原風景から分化する、という仕組みを語っている。「音楽とは」というのは「作品」ということでもあり、これらの曲がその手前の状態にあることを、『ふるさと』では課題として、『海の日記帳』については単にそのようなものとして、それぞれ語っている。3番目はこの仕組みの逆用というのか、「切り離す」つまり分化させるために北原白秋による作品を書いた、と言っている。

「分化」「切り離す」という言葉の裏には、「男声」「ピアノ」「白秋の韻律」の、自身との分かち難さがある。身近な、自分そのものでもあるような親しさが、そうした分化を難しいものにする。その点で男声合唱曲が少ないこととピアノ作品が少ないこととは類似とも見られる。

ここでまず一点、なぜ子供のためのピアノ作品を書くことができたかについて推測することができる。先に書いたようにピアノとの親しさが作品の成立を難しくするのだが、子供のための作品ではそれとは異なり、むしろその親しさ自体を目的としているためだろう。

『生きる』の成立事情についてはどのように考えられるだろうか。ピアノパートと子供のための曲とが近い印象を持つのは、ピアノとの関係が類似しているためと考えられる。が、この曲の音を弾く心情は子供に向けるものではなく、それだけでは作品とはならない。その場合、恣意的な単なる気分として三善は捉えたのではないか。そこに「(『生きる』の)詩句が聴こえてきた」ことが、そのピアノの音を自身の恣意とは異なるものとして成り立たせることになる。このため、作品としての成立にこのピアノと「生きる」の詩がともにあることが必要だったのだろう。

三善晃とピアノ作品(1)

ピアノは弾けないしそれほど聴くこともないのでこのようなお題を掲げるには向かないのだが、少し思うことがあったので書いてみる。

きっかけはコンサート「未来に伝える三善晃の世界Ⅳ」の案内が届いたことで、今回はピアノ独奏のための作品を集めて開催されるとのこと。案内には「三善晃とピアノ」と題された文章があり、三善晃とピアノの関わりの深さと、それとは裏腹にコンサートに向けたピアノ独奏作品が非常に限られていることについて触れられている。ファンにとっては言わずもがなの話とも思えるが、奇妙なことではあり、けれどもその奇妙さについてあまり語られていないように思う。

三善晃のピアノ作品は、上の条件では今回演奏される5つの独奏作品だけとなるが、条件を緩めるならば連弾や2台ピアノのための作品もあり、また一方では子供のための膨大な作品がある。そして、初期のソナタや『オマージュ』シリーズその他の室内楽曲があり、ピアノ協奏曲他のピアノが重要な役割を持つオーケストラ作品がある。さらにはこちらも膨大な、合唱とピアノのための作品がある。こうして見るならばつまり、三善晃のピアノ作品は少ないとも多いとも言える。

三善晃自身がどのように言っているかを確認しておく。現在は日本合唱曲全集の『三つの抒情 三善晃作品集3』のブックレットで読めると思うが、「詩と声とピアノ―私の音楽」という文章でこのように書いている。

私はピアニストではない。ピアノで育ち、ピアノで息をし、ピアノで話をしてきていて、だが、ピアニストの”仕事”はできない。その私に、ピアノのためだけの作品は多くない。子供のための曲集や、試験用の初見曲などを除けば、協奏曲一曲を含めて数曲しかない。私のピアノ欲求は、きっと合唱曲のピアノ・パートで満たされているのだと思う。

また、カメラータ・トウキョウの『三善晃の音楽Ⅱ 円環と交差―岡田博美プレイズ三善晃』の作品解説の、『円環と交差Ⅰ・Ⅱ』の項にはこうある。

曲名の要因にもなった厳密な理論はあるが、それより「ピアノのために」とした副題の方が私には親しい。この遠慮知らずな題名は、ピアノが私に慣れすぎたために、却ってピアノ曲を書けないことの反動でもあろう。

前者に見られるように、三善晃自身にピアノ作品の創作への欲求はあった。後者、「ピアノが私に慣れすぎた」ことがその欲求を押し留めるように働いたということのようではあるが、それはどういうことだったのだろうか。素朴に考えれば作曲が容易になりそうなものではないか。

先に挙げた作品群をもう一度眺めてみる。引用した文章と見合わせて考えると、少数の「ピアノのためだけの作品」と、多数の「子供のための曲集」、やはり多数の「ピアノのためだけ」ではない作品がある、という風に整理することができるだろう。

作曲が容易になること自体が問題だった、と考えられる。子供のための作品ではその容易さを受け入れることが意味を持ち、合唱作品他のピアノ以外の楽器を用いる作品では、その楽器があることによってその容易さから離れることができたのではないだろうか。

『さまよえるエストニア人』(『蜜蜂と鯨たちに捧げる譚詩』)

三善晃の拍子や連符などによる象徴的な表現や描写などについては何度か触れてきた。

 

tooth-o.hatenablog.com

tooth-o.hatenablog.com

こうした観点から『さまよえるエストニア人』の楽譜を眺めたとき、「彼の背中には/羽が生えている」に現れる五連符がまずは目に付く。これはリズムの揺らぎを通じて、父が天使というこの世のものでない存在になったことを表現する。そして五連符が次に現れるのは、曲の最終部、合唱が最後の和音を伸ばす部分になる。ここではピアノが五連符により急速に下降していく。この意味も分かりやすい。五連符が天使を表すことから、このピアノは「天使たちの船が庭を通り過ぎる」という詩の最後の場面を描いていることになる。

もう一点、非常に目立つのが「うたっていた日の」の部分の、ピアノによる六連符の刻みになる。これが「蜜蜂の歌」の詩句に対応する蜜蜂の羽音の描写であるのは明らかだろう。先の五連符は聴くだけでは分からないのではないかと思うが、こちらは詩を把握していれば気付く可能性が高い。

ここでの「気付く」というのは意味を把握するということだが、何度か聴いている内に、実はこれはそれ以上のものではないかという気がしてきた。三善晃はここで、本当に蜜蜂の歌を鳴らそうとしているのではないか。

楽譜を見直してみる。ピアノの右手がオクターブで六連符を刻む一方、左手側は八分音符から二部音符によるより大らかな動きとなっている。合唱は2小節ごとのフレーズになっており、アルトやテノールの divsi により5声部ほどのホモフォニーが豊かな和音を鳴らす。

ここでのピアノの右手によるオクターブだが、低音側は合唱の音と重ねられている。このことが、左手の力強い低音と合唱の和音と相まって、不思議な響きを生んでいるのではないかと思う。オクターブの下の音は基音が曖昧になり、細かい刻みにより発音時の噪音的な響きが分離される。一方では上側の音、さらに合唱との重なりにより倍音が強調される。

さらに細かく見ると、右手の刻みは2小節ごとの始めの音だけその後よりも低い音を弾く。これによりオクターブの音がそれ自体で発音されているというよりも別の音から共鳴により生じているような印象が生じる。

これらが合わさることで、蜜蜂の羽音のような噪音の反復が高音の豊かな響きを生み出しているような効果となっているのではないかと思われる。楽譜は当たり前のように書かれているが、この部分には思いがけない音響上の挑戦があり、しかもそれは作品の重要な要素となっている。

『詩篇』Ⅴ.途中の途中・滝壺舞踏

東京都交響楽団の演奏は、合唱のリズム感がやや鈍い印象があった。特に、標題のセクションではリズムに乗り切れていないというか、口が十分に回っていないように感じられた。

https://www.youtube.com/watch?v=UZtIiWtHrLE&t=1166s

そうした状態で演奏として成り立たせようとするならば、歌い切れる部分の言葉の訴えを強く出すことになる。最後の「おれたち生きた」が端的な例になるが、そのように演奏されると、この部分は罪悪感の歌になる。詩の言葉から訴えかけを組み立てようとすればそうならざるを得ないのだろう。演奏の練度や技術的な問題が、解釈に影響を与えることになっている。

組み立てと書いたが、問題はここでの罪悪感が意識的に組み上げられている点にある。技術的な問題が訴えかけを要求し、訴えかけの必要が内容としての罪悪感を求めるのであって、つまり音楽や詩に根を持っていない。

宗左近の詩が罪について語っているのは確かだろうし、『詩篇』もまたそうだろう。音楽や詩に根を持たないということはつまり、「罪悪感」にもかかわらず罪そのものの実感が欠けている。必然と言えば必然であって、宗左近のことを「何て酷い奴だ」と思いながら歌っている人というのもそうはいないだろう。

 

「滝壺舞踏」のような歌を発する意識とはどのような状態か、と想像する。このリズムを自発する身体的な感覚を思うとき、自分にはこれは「頭がおかしい」ということだと感じられる。

なぜ「頭がおかしい」状態になるのか。「滝壺舞踏」の詩句を見てみると、

山がはじけた 海さかまいた

吊り橋はねた 青空さけた

黙示録的というのか、世界の終末のような言葉が連なっている。そのまま受け取るなら、詩の語り手は世界の終わりを目の当たりにしている。世界の終わる光景を目にしたためにおかしくなっている、ということになる。詩の言葉はさらに

きみたち死んだ おれたち生きた

と続く。事態としての罪はここにあり、それが世界の終わる光景と直結している。

ここで言っているのは、罪があるとは世界が終わるのと同じ、ということなのだと自分は考える。

償うことのできない罪が現にあるとき、山も海も、世界にある全てのものが罪と関りを持たない。罪が自身に重大な意味を持つならば、他の全てのものが意味を失うことになる。罪を認識した瞬間、一挙にそれが起きる。だから、罪があるということは世界の終わりと同じことなのだ。

「滝壺舞踏」の詩は世界の終わりとしての罪を語り、歌は反応としての狂乱を歌う。その間で描かれるのは「罪が現にある」という実体的な感触だろう。そして、罪の感触と「君たち死んだ おれたち生きた」と世界の終わりと「頭のおかしさ」は全て一体であり、最後の「おれたち生きた」の叫びに表れなければならない。