『レクイエム』のテキストについて

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日本現代音楽協会『NEW COMPOSER Vol.13』に載せられた三枝木宏行氏の記事は、三善晃の『レクイエム』に取り上げられたテキストに対し、出典における本来の意図や意味を確かめ、曲の中での扱いと照らし合わせるものだった。

一方、こちらは呑気な一ファンなので、曲とその歌詞としてどのように読み得るか、ということが気になる。元のテキストの書き手や書かれた時期、用いられなかった部分などをどの程度考慮するか、また歌詞のそれぞれについてどのように関連を見るかといった点でどのようにも恣意性を差し挟む余地がある。以下は自分自身の勝手な読み方の一つで、書いては見るがそれほどは拘りもない。

「誰がドブ鼠のようにかくれたいか!」から始まり「シカシ、ヤッパリ殺シテイル」につながる「Ⅰ」の歌詞は、最終的に「母よ/あなたの息子が人殺しにされたことから/眼をそらしなさるな」に至る。つまり、「Ⅰ」は「戦地で人を殺した者」を巡る内容と見ることができる。

ここで語り手に一貫性を見ようとした場合、「母よ」の語り手が「あなたの息子」する解釈が可能になる。このように見た場合、人殺しとして母親の前に立つ息子、その息子を前に目を逸らす母親、という恐ろしい場面が発生する。さらに、「おとなしい象」が「そこにあるものも知らずに戦地に送られた者」といった見方にも成り得る。

 

第2の部分は「死せる我が名を呼び給うな」と「西脇さん/水町さん」という具体的な名前の対置により、名前をテーマとしていると見ることができる。人は誰かに呼びかける。「敬ちゃん」や「房姉さん」等、死んでいった人も生きている人も、誰かの名を呼ぶ。が、死んだ人はその呼びかけを拒む。

「コットさん」はどうか。これも固有の名前であるとは言える。また、この部分のテキストは戦中における銃後、生きている人の現実と見ることもできる。その意味では、生と名前、という図に嵌めることも、一応できないことではない。または「Ⅲ」との関係で、戦時であることを示す意味を見ることはできるだろう。

「Ⅱ」では録音した合唱を流す指示があるが、「あなたでしたね」と歌う録音が生きている者の側であるというのは特徴的だろう。普通ならば歌とは生きている人のものであり死者の歌は聴くもの、という配置になる。この取り扱いは『レクイエム』が死者の歌であるという印であり、そのことの異常性には気を付けておく必要がある。

 

「これを食べてください」が「Ⅱ」の「米ありません」と対応する可能性が、三枝木氏の記事に示されていた。この両者について、まず戦中と戦後の時点の差が見られる。また、「Ⅱ」の「コットさん」に対し「Ⅲ」では名前が現れない、そのことによってこれが死者に向けた言葉である、と見ることができる。

続く「ゆうやけ」の詩による部分では、再び録音が重ねられる。が、「Ⅱ」では演奏用とは別に録音用のパートが書かれているのに対し、「Ⅲ」では演奏と同じ合唱を録音して6小節後から流すことになっている。死者たちの声に、生きている人の声が後から合流するという作りになっている。

 

全体を通して

「Ⅰ」には「戦地/銃後」という構図が見られる。これは「Ⅱ」へと繋がり、「Ⅲ」で「戦時/戦後」へとスライドする。「母よ」について上に書いた解釈は強引ではあるが、「息子/母」と「戦地/銃後」とを直接対応させることになる。

全体を「戦地-戦時-死者」と「銃後-戦後-生者」という2つの連関として見ることもできそうに思える。その両者の間の乖離が「人がしぬ」「世界には/だれもいない」という絶滅の光景につながる。死者の声と死者を呼ぶ生者の声が、誰も彼もが死者になる世界を求める。

繰り返し取り上げている「弧の墜つるところ」を見ると、三善晃は作曲中、死ぬこと、死んで死者たちの仲間になることばかりを考えていたように見える。『レクイエム』は、そのようにして死者の位置を先取りした三善晃が、戦後に生きる人たちに上の乖離を突き付けようとしたものだろう。

『ぼく』『あなた』『じゅうにつき』(2)

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「複合唱的な性質が後退していく」と書いたが、このことについて詩の側から見るとどうなるか。

『ぼく』の場合、詩は人生の場面が「もういいかい」によって区分される構成となっており、その両端に人生の内部ではない場面が現れる。この構成が編成の多様性を許容する。それぞれの部分にある程度の独立性があるために、むしろ違いを設けることが必要になる。三善晃は「人生の内部ではない場面」の論理を読み出し、<PROLOGUE>、<ぼくはうまれた>、<もういいかい>、<ふたたびよるへと>、<そのめのなかに>、<ぼくはしんだ>の部分を作曲している。人生と、別の人生、人生の外側、というような複数の層が詩には含まれ、このことがまた編成の幅を要請する。

こうした観察から、三群のため作品に用いる詩としては、内容と外形の複雑さと、それぞれの場面や要素を切り分けられる構成がをもつことが望ましいというか都合が良いと考えられる。詩集に含まれる6篇を見渡して、『ぼく』の詩がこのような性質を持っていたことからこの詩による曲が作られたのではないかと思う。『あなた』『じゅうにつき』はこう言っては何だが行きがかり上、ということではなかったか。

上に書いた性質を意識して『あなた』と『じゅうにつき』の詩について見なおしてみる。三群のための詩として具合の良いものを真っ先に取り上げたと考えれば、他の詩はそれよりは適していないと考えることができるだろう。

『あなた』の場合、「あなたはだれ?」が詩を区分し、また「わたし」の現在の思索、「あなた」と共にいた思い出、「わたし」の想起の中の「あなた」、「わたし」が想像するしかない「あなた」の知覚や記憶、といった多層性がある。が、「もういいかい」が各部分を切り分けたのと異なり、「あなたはだれ?」は諸々の展開を「わたし」の思索へと引き戻し、各部分を結び付けることになる。多層性は詩の構成と直結せず思考の流れとして流動化する。この流動性の結果、三群を明示するためには確固とした形が必要となり、その分単純になる。各群が順に現れる、または特定パートのみが三群の形で現れる、といった形が中心になる。

『じゅうにつき』については、対等な12の場面、それに最終部が最初の部分に回帰する、という以上の構造を与えようがない。この時の各場面は意味的に連結されておらず、ここで三群の編成を複雑に展開すると単に散漫になってしまう。三群への書き分けを意図して作曲を進めた跡は見えるものの、その形で出版されなかったのは、編成の必然性がないことが最終的には問題になったのだと思う。

結果として、『じゅうにつき』は三善晃の作品のなかでもかなりの難物となった。divisiの多さから少人数での演奏は難しく、12曲で28分というのも曲数が多く、また1曲毎は長くなく全体としては長いため、近年のコンサートでは、あるいは合同演奏としても、扱いづらい所がある。『ぼく』『あなた』とセットで扱うには編成が一貫せず、『ぼく』『あなた』だけの方が座りが良いような気がしてしまう。総合的には、合同演奏の規模感と小曲的な個々の曲の長さや歌詞の内容が食い違ってしまう。

とはいえ結局、12曲全体をきちんと演奏するのがあるべき姿には違いない。相応の規模と実力のある団体による演奏が待たれる。

『ぼく』『あなた』『じゅうにつき』(1)

谷川俊太郎の詩集『みみをすます』による3曲。これらは三つの大学合唱団から成る「合唱連盟虹の会」の合同演奏のために書かれた作品であり、『ぼく』『あなた』は「三群の混声合唱体とピアノのための」となっているが、『じゅうにつき』ではピアノは用いられず、合唱も出版譜は三群の形にはなっていない。

虹の会は田中信昭を指揮者として迎えており、『ぼく』の前書きに

田中信昭さんの示唆をいただき、谷川俊太郎さんの詩集「みみをすます」を心の課題としてから二年ほど過ぎ

とあるように、これらの曲の成立には田中信昭が大きく関わっている。田中信昭は合同演奏という形に相応しい作品を求めていただろうし、合唱音楽の拡張や複合唱の現代的な再生といった考えもあったのではないかと思う。

三群という編成を意識しながら楽譜を眺めてみる。『ぼく』は曲が多数のセクションに分かれており、三群はそれらのセクションごとに組み合わせの可能性が試みられている。<ぼくはうまれた>はシンプルなアルトの呼び交わしのようでいて、ソプラノは三群共通の2声の divisi 、男声は各群ごとに別の音を鳴らすようになっており、以後三群合同の部分、三群の女声のみと男声のみ、2:1の大小をつけた二群、男声が合同で女声のみ三群、と現れる。<PROLOGUE>/<ふたたびよるへと>ではこうした多様性が内部で示され、三群は見えながらも各群、各パートの関係の移り変わりが複雑になっている。

これらの組み合わせの中で、女声三群・男声合同の形はやや特殊な意味を持つように思える。「低音が合同」と見れば、これは『あなた』につながる性格になるためで、実際に『あなた』のバスのパートはかなりの部分で三群共通となっている。

『あなた』は、終止線による区切りが途中に2か所あり、それぞれの途中に複縦線による区切りもあるが、それぞれのセクションに呼称や番号などはない。三群の扱いはこれらの区切りともそれほど結びついておらず、三群の形は各部分で流動的に現れる。その現れ方としては、各群が対等、2対1、三群合同などもあるが、実質声部内の divisi に近い場面や、全体が一斉に歌う中で特定のパートのみが三群の形で歌うといった場面もあり、特にこの最後の形が多く現れる。上に挙げたバスパートについてはこのような形の中でほぼ常に共通となっている。全体的には、複合唱的な性格は『ぼく』よりも弱まっている。

『じゅうにつき』の出版譜は冒頭に触れたように、三群ではなく四声の形になっている。が、楽譜を見ると三群にしようとした痕跡のようなものが見える。ホモフォニックな部分の少なさや長い休符の多さ、放漫とも見える divisi の多用、その divisi した声部が多声的な動きをすること、などがそうしたものとして挙げられる。

楽譜の前書きで三善晃

作曲が遅れ、12曲のうち何曲かは3群・12声部の混声に書き分けることができず、通常の4声体(3群共通の楽譜)となったが

と書き、三群の形が四声体からの書き分けという手順によっていることを明かしている。『ぼく』の時点からそうした手順であったかは分からないが、3曲を通じて複合唱的な性質が後退していく事情の一部は、この作曲の手順なのではないかと思われる。おそらくこの書き分けはオーケストレーションに近く、作曲の度に機能面が徐々に整理され、均等な3つのグループという編成の必然性が薄れていったのだろう。『あなた』のバスパートの件も、こうした経過の表れと考えられる。

 

東京シンフォニエッタ 第53回定期演奏会

2023年7月7日(金) 19:00~

東京文化会館小ホール

今年80歳を迎える池辺晋一郎を中心としたコンサート。以前から気になっていた三善晃の『詩鏡』が演奏されるとのことで聴きに行くことにした。池辺晋一郎は合唱曲を数曲歌ったことがあり、福士則夫は『陽の扉』という曲があると聞いたことがある程度。器楽作品についてはそれぞれCDを1枚聴いたことがある。

最初の『花降る森』は「室内オーケストラのための」とされており、弦がパート1名に複数の管楽器、打楽器とハープだったか。器楽の演奏に慣れず編成を確認する習慣がないのだが、室内オーケストラというとこのような感じか、と思った。曲は鋭い音や激しい動きも要素としてはありながら、全体的には穏やかで風通しが良くやや滑稽味もある、といった感じで、以前に聴いたCDの印象に近かった。風通しが良いと書いたが、それが、音楽は演奏されているけれども聴かなくても良い、というような緩い感じでもあり、不思議な感覚だった。

室内オーケストラ、と思いながら聴きに来たにも関わらず池辺晋一郎の3曲は室内楽程度の、それぞれ数名ずつでの演奏となっていたのでやや肩透かしを食わされたような気気分になった。

最初の『うたげⅠ・Ⅱ』は歌曲で、『Ⅰ』が1964年、『Ⅱ』は1986年に追加されたとのこと。全体に気味の悪い印象があったが、「Ⅰのおどろおどろしさを中和する」とプログラムに書かれていた『Ⅱ』の方が、ヴォカリーズに奇妙な繰り返しが合わさって一層不気味さがあった。

『TANADA Ⅱ』は高音でそれぞれの楽器が特定の音型を繰り返し、それが低音へと移っていくような作りの曲で、聴いていてかなりせわしない。冒頭部分などは祭囃子のようにも聞こえて面白かった。「いわゆるミニマル・ミュージックのそれとは異なる繰り返しの理論」と書いているが、それほど区別のつくものとは思わなかった。

『君は土と河の匂いがする』ではギターが加わった。何かが起きて欲しい頃にちょうど何かしらが起こってくれる、というのが池辺晋一郎のCDを聴いた時の印象だったが、この曲はそうした印象に近かった。

三善晃の『詩鏡』だが、その前の曲の時点で背後にティンパニや、コントラバス2本が並んでおり、何か思っていたのと違っていると感じていた。実際にステージに並んだ演奏者は、弦が4-4-3-2-2、管楽器は後で紹介されたのが12名、ティンパニに打楽器(銅鑼もあった)など、素人目に普通にオーケストラなのでは、という規模だった。

先に2人の作曲家の曲を聴き、その間の違いの印象があったことから、『詩鏡』に対してもそれらとの差をまず感じた。福士則夫には聴き手に圧をかけない軽さを感じ、池辺晋一郎には場面ごとの音の充足感があった。『詩鏡』ではその場で満たされることなく、その次へ、その先へという引き立てられていく感覚、またその先に起こる何かを待ち続けているという感覚があった。解説には思想的な背景とそれを落とし込んだ音のメカニズムについて書かれていたが、そこまでを追って聴く能力はなかった。

全般的に、まずまず面白く聴くことができた。が、とにかく器楽系の演奏には慣れておらず、聴けているという気もあまりしない。こうした演奏も録音が出るとありがたいのだが。

『五つの童画』メモ

  • 完全四度/完全五度の強調は見て取りやすい。例えば『ほら貝の笛』を除いて全ての曲が空虚五度になっており、『ほら貝の笛』についても最後の音は D-A-E すなわち二つの完全五度を重ねたものと見ることができる。
  • この他にも、各曲のセクションの始めや終わりなどに空虚五度が度々現れる。これは特に、『風見鳥』や『ほら貝の笛』で多く見られる。空虚五度が繰り返される分、それ以外の部分の完全四度や完全五度を類似と見て良いかは分かりづらい。
  • 各曲の最後の音は、D-A(『風見鳥』)、D-A-E(『ほら貝の笛』)、A-E(『やじろべえ』)、E-H(『砂時計』)、D-A(『どんぐりのコマ』)となっており、曲間のつながりが見やすい。また、第1曲と第5曲が同じ音で終わる。
  • 各曲の始めと終わりを見ると、『風見鳥』は D-A で始まりD-A で終わる。『ほら貝の笛』の最初の旋律は A から始まり D に行き着く。終わりは上の通り D-A-E。『やじろべえ』の始まりは A-E-D-E で、最後は A-E。『砂時計』は Gis-H-Eで始まる旋律から最後は H-E。『どんぐりのコマ』の最初の旋律は G から D まで上がり下降して A に行き着く。最後は D-A。
  • 最後の D-A の由来をさらに追うと、組曲の第一声「ぎっつぎったん」の D-A-D-E に行き着く。つまり、全体が D-A から始まり D-A で終わるという作りになっている。
  • 『砂時計』の後半部「落ちた時は銀色の」の音型は『ほら貝の笛』の冒頭「海はほら貝を」を引き継いでいる。この順次下降する4つの音を「風が耳うちして」の逆行と考えられるかどうか。
  • また、全体的に長い全音階的な順次進行が多く現れる。これ自体を「風が耳うち」の拡大と見做せるか。
  • 動機の関連性については他にも、『どんぐりのコマ』の「もういいかい」が『やじろべえ』の最初の「やじろべえは」と結び付いている。また、「いちばんおおきなどんぐりゆけ」のバスにあるような半音の上下動も『やじろべえ』で現れており、これは『風見鳥』の嵐の場面に由来するかも知れない。
  • 『やじろべえ』のソプラノに現れる付点八分音符の「影できた」は最初の「やじろべえは」のデフォルメした反行形ではないかと思う。
  • 『ほら貝の笛』の前半は合唱が歌っては休む繰り返しに、徐々にピアノが低音域で挟まってくる。このピアノはコオロギがほら貝の中に這い込んで動く音だろう。
  • 全くないかは確認していないが、合唱が長三和音を鳴らす場面が『砂時計』の前半までない。『砂時計』でも後半にはやはりなく、次は『どんぐりのコマ』の中間部まで待つことになる。
  • 『砂時計』後半で付点八分音符が3回現れ、どれも描写的ではあるがそれぞれ全く性質が異なる。最初の「泳ぐ」は魚の尾の動きのような運動性、「光らせて」には光の瞬くような印象があり、3つ目の「喰んで」では口を開いてものを含むような感覚になっている。