『風見鳥』(『五つの童画』)

『五つの童画』を聴いて納得したことがない。名だたる合唱団が多くの演奏を残している曲で、CDもそれなりに所持し、何度かは直接演奏会で聴いたこともあるが、歌ってはいるもののどのように聴かせたいのか分からない。この組曲では作曲者の書いた「どの詩にも破滅や絶望失意の相をもたらしたと思うのだが、私は、それらを胎生の糧としない愛を信ずることができない」の文章が必ず取り上げられるが、ここに何かの結論があるかのように飛びつくことで、歌が聴き手を納得させるために踏むべきプロセスをスキップしてしまっているのではなかと思う。

『風見鳥』ではそもそも詩の情報量が多く、対応して場面の転換も多いがそれらを明快に聴かされた記憶がない。「裏山の猪が」から一気呵成に風見鳥が落っこちてしまい、歌詞が終わった後は東混の演奏の思い出を聴いているようになってしまう。後奏を必要とするような時間と内容の量感がなくてはならないだろうし、それが組曲全体の構成感に影響するだろう。

ところで情報量と言えば歌い始めの擬音の部分、原詩とは多少変えられて「ぎっつぎったんるーらるーるるぎっるるるるるー」と歌われるが、ここだけでかなりの内容がある。「ぎっつぎったん」が風見鳥の回る音、「るるる」がディナーミクから見ても風であり、風が風見鳥に近づきまた離れる描写になっている。なのでここは、一フレーズの中で二役をこなすことになる。さらに、「ぎっつぎったん」という音の鳴り方は、軸が傾いていて擦れる音が響き、どこかで突然一気に回るという動きであり、詩とすれば風見鳥が落ちることの伏線とも言えるかも知れない。

次の歌い出し、「風が耳うちしてすぎる」の旋律も単純ではなく、「風がすぎる」という一節の途中に「耳うちして」が挟まる形をしており、二つのアクションが織り込まれている。以降も細かく見れば非常に細かい作りになっており、不満を言ったもののいざ演奏すると考えると気が遠くなる。

「風見鳥落っこちた」の後は「ぎっつ」という擬音は現れなくなる。これは「ぎっつぎったん」が風見鳥の回る音だから当然ではある。話が変わるがこの周辺のピアノの描写は物凄い。雷と雨音、さらに雷が遠ざかり雨脚が弱まる表現があり、雨が止んで水滴がしたたる音や木の葉の揺れる様子が描かれ、そこに明け方の色合いまでが込められる。『五つの童画』では、色彩的な部分はここと同じくらいには色彩的なはずであり、演奏がそれをはっきりと表現するべきだと思うのだが。