『街路灯』終盤あたりの話

『街路灯』について、今年は篠田昌伸の和声分析

三善晃「街路灯」和声分析 - YouTube

や、合唱連盟の会報ハーモニーでの鈴木輝昭の分析

ハーモニー過去の内容  No204  2023年

を見ることができている。気ままに眺めているだけの身ではあるが、大変にありがたい。

指摘されている、冒頭 E-dur の「みんなすてよう」の主題が終盤では Es-dur で再現されることについて、これまで聴いていてあまり意識に上らなかったのが自分としては奇妙に思えた。

ところで、詩の最後の3行は次のようになっている。

ときは 無心に気配をつもらせ

朝へと

光ごとかしいでいく

この部分は上で触れた再現の前に、まずは語順通り、次は「ときは朝へとかしいでいく」のように歌われる。

「かしいでいく」は傾くことで、「とき」がかしぐのは時計の針のことだろうとは思っていた。「光ごと」の光は街路灯(「光の孤塔」)のことで、これがかしぐとはどういうことかと長らく分からなかった。多分これは自転のことではあって、ただそう言ってしまうと大仰すぎる印象がある。が、ともあれこう見れば「朝へと」の話は通る。

Es-dur による再現の話に戻ると、ここは「みんなすてよう」の歌詞が3回現れる内の3回目で、ここだけ調が変わるのは詩の引用した部分を通過することと関係しているはず。つまり「朝へと」「かしいで」 Es-dur に至る、と見るべきだろう。傾くと低くなるはずなので、半音低い調になるという点も整合的とも見られる。すると今度は、最後に E-dur に戻ることについても考える必要が出てくる。これ自体は、語り手の、夜に街路灯を見上げている現在に戻ってくる、くらいに考えることもできるだろう。

篠田昌伸の解説はこれらの部分について、Es-dur からどのように E-dur に戻るか、また「E-dur と Es-dur の同居」という話をしている。大枠、E-dur が夜に、Es-dur が朝か、朝に向かう時間の流れに対応するはずであり、それが夜に戻ろうとする方向性を持つとすると、どのような意味になるか。

このように考えられるかも知れない。夜を拒んで立つ「光の弧塔」は、夜のあることで高く立っていられる。そのために、本当は夜に留まろうとしているのではないか。最後から3小節目、ピアノの最上部の♮は、そこに朝が訪れる兆しだろう。

最後の E-dur のことに戻るが、夜の街路灯に過去の心情を(というのは「とき」が語られるため)思うことから詩は始まるので、その物思いから現在に復帰するという見方ができる。そこでは否応なく朝が訪れることを知っている現在の自分と、まだそれを知らない過去の自分が一時だけ同時にいることになる。

さらに冒頭まで戻る。合唱が詩の第2連から歌い出されることについても2つの分析では話に上がっているが、これがどういうことなのか。三善晃はこの詩の描く場面を、不意に街路灯から過去の自分のつぶやきが聞こえる、というところから始めたのではないだろうか。だから街路灯を見上げたのだと。であれば、「みんなすてよう」の繰り返しはそれぞれまるで意味付けが変わることになる。