三枝木宏行「《レクィエム》から《詩篇》へ」

つい最近のことだが『NEW COMPOSER』の Vol.15 が出ており(電子書籍のみ)、上記タイトルの記事を読むために購入した。前回の

tooth-o.hatenablog.comの続きと見られるこの記事は、『プロターズ』を起点とした70年代後半の創作の流れ、宗左近の詩集『縄文』を確認し、『詩篇』の展開を追う、という内容になっている。記事の中で触れられる曲は、『プロターズ』『チェロ協奏曲(第一番)』『変化嘆詠』『リアニア』『レオス』。そして『ノエシス』が大きく取り上げられ、『レクイエム』と『詩篇』をつないでいく。そして、宗左近の『縄文』からの文章を引き、

「(死者の)魂の宿りうる肉体をあらたに与える」という思考は、三善が《ノエシス》において示した「個々の音楽を一個全体の持続のために志向的に存在せしめる」ための方法論につながるものでもあるだろう。《詩篇》においてそれは《レクィエム》で果たせなかった「死者との交わり」に向けての祭儀として描き出されてゆく。

と整理する。

雑誌や演奏会のプログラムに載せられた文章までを追った、調査のしっかりした記事なのは今回も同様だが、不自然に触れていないものもあると感じた。特に、『クレーの絵本 第1集』に触れていないこと、そして『響紋』初演時のプログラムに寄せられた文章<あと、地上には>に触れていないことが気になった。

ノエシス』のタイトルがフッサール現象学に由来することは、三善晃の解説からも分かり、またこの記事でも説明されている。

個々の楽器の「音楽」は、音が(その空白を含めてアプリオリに)時間をもっている、という意味で私の存在感覚に属するが、志向性をもたない。フッサール流にこれをヒューレとするならば、それらが一個全体の持続のために(志向的に)存在しはじめるには、そのための契機あるいは生気を与えるノエシスが、やはり私の体験裡に、しかし対自的な意識作用として、つまり、異常な空想の体験として、なければならない。

(『遠方より無へ』)

新たな投企が進められる際に、この新作が「ノエシス」という現象学の用語タームを冠された意味は、先の「無音から無音へ――遠方より無へ」というあり方への(作曲家によれば「かなり深みにはまった」)「迷い」、現世に身を置きながらそれを試みる事による逡巡からの離脱にあったとも考えられる

(「《レクィエム》から《詩篇》へ」)

ところで『クレーの絵本 第1集』は『ノエシス』と同じ1978年の作品であり、『遠方より無へ』では『ノエシス』の次のページに解説文がある。

詩の選択については合唱団の希望がそのまま私の気持になった。作曲者が「その気持になる」のは、そのとき、ある感覚の色(ルビ:ヒューレ)がその詩から与えられ、歌われるべき音楽への投企がはじまっている、ということであろう。

(『遠方より無へ』)

つまり、三善晃はこの時期に、単発的ではなく現象学的な物事の捉え方に関心を示している。そのことを抜きに『ノエシス』から『詩篇』へと話を展開して良いのか、ということが気になった。

もう一つ、『響紋』初演時の作曲者の文章<あと、地上には>の方には、『レクイエム』『詩篇』への直接的な言及がある。

「レクイエム」では死者の声を聴いた。私のメモは<生←死>。「詩篇」では、生者が呼びかける。メモは、まず<生→死>。だが、声は、とどきようもない。死の壺の縁から「花いちもんめ」と聴きとれるエコーが戻ってくるばかりだった<※>。

あと、なにが残っていよう。

(<あと、地上には>。※部分は「生」から伸び「死」の手前で折り返す矢印の下に「花いちもんめ」が置かれる)

今回の記事は主に「弧の墜つるところ」を参照しながら、『詩篇』を「死者との交わり」として描くのだが、この文章によるならば『詩篇』が示すのはむしろ「死者のとの交わり」が成り立たないことだ。

取り扱う文章の選定にしかるべき根拠はあっただろうが、曲の理解に対してそれほど有効ではなかったのではないかと思う。また記事の全体について、座りの良い話にまとめるため、適切性に疑問符のつく解釈を各所で行っていると感じた。