2つのコンサートについて

詩篇』をどのように把握するかが問題なのだろう。

 

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都響の『詩篇』、「Ⅷ おわりのおわり・波の墓」が「ゆれあっている/ゆられあっている」と歌い出したときのpp(楽譜の指定は未確認)に、少し白けるような気分になったことを覚えている。どうも、演奏者が、音楽を自分たちの知っている表現に帰着させるのを感じたのだった。気が抜けたとまでは言わないが、演奏が普通の音楽の普通のカタルシスに行き着くことに物足りなさがあった。『響紋』が続けて演奏されたが、こちらもその状態の延長と感じられた。あの振付は、音楽で場を充満させられないことの表れだったような気がしてきている。あるいは単純に、『詩篇』と『響紋』の間に休憩が挟めなかったためということかも知れない。

強い言い方をすると、都響の演奏は『レクイエム』『詩篇』の意義をを聴覚上の負荷に集約させてしまい、調性を単にそこからの解放のカタルシスにしてしまうものだった。三善晃の作品に「僅かなカタルシスのために厳しい音を聴き続ける」面がそれなりにあるのも確かだが、今回の場合では『詩篇』の作品としての独立性と一貫性が損なわれてしまっている。

 

トウキョウ・カンタートの今回の選曲を作曲年を中心に見直すと、『地球へのバラード』『唱歌の四季』『田園に死す』の3曲が『響紋』と近い時期の作品であることに気付く。奇妙なのは、『王孫不帰』『オデコのこいつ』の配置は『レクイエム』との連続性を主張し、10年遡る『嫁ぐ娘に』もそこへの「導火線」とする一方、1980年代の3曲は互いにも、また『響紋』とも切り離されていることだ。つまり、今回の選曲を通じて、個々の合唱作品は孤立し、『レクイエム』との関係においてのみ意味を持つ。『沈黙の名』の「夏」が恣意的に語られるのも、『地球へのバラード』をこの構図に巻き込む意味がある。

 

ここに挙げたことが、『詩篇』の理解を迂回することによって生じているのではないかと自分には思える。『詩篇』が分からない、というだけでなく、『詩篇』は分からなくてよい、ということになっているのではないだろうか。

自分の印象では、都響の演奏『詩篇』を一体の作品として示すことに成功してはいなかった。「Ⅷ」部分の意義の了解がなかったために演奏について慣習的なものが表に出てしまった。これは今回の演奏ということではあるが、『詩篇』が次に一体何年先に演奏されることになるかと考えるとあまり軽く見ることはできない。

トウキョウ・カンタートの作品評価の枠組みは、おそらく元々は器楽の領域から流入したものだろう。この部分について思うこともあるがさておき、そこで『詩篇』を回避することにより、三部作の意義が全て『レクイエム』に積み上げられることになった。さらには、『レクイエム』以前が全て『レクイエム』への準備と見做される一方、特に『レクイエム』から先の三善晃の問題意識の連続性や推移を負うことができなくなった。『響紋』前後の作品がばらばらに配されたのもこうした状況の表れであり、さらにそれを強化している。