『レクイエム』とその他のこと

「誰がドブ鼠のように隠れたいか」の言葉を客席に投げつける時の快感について、考えることがある。

「レクィエム」を書き終えたとき、それによって死者たちと終に仲間になれない自分の輪郭を描き終えてしまったことに気付いたことを言いたかったからである。

これは「弧の墜つるところ」からの引用だが、では、それに気付く前の、『レクイエム』を書いている時、書き始めた時の三善晃は何を思っていただろうか。29歳、自殺を図ったのは、死者の仲間であることを証すためだっただろう。30代の創作は、その遅延を許すのに足りるものを求めていた。

悪罵のように叩きつけられた思いもよらない言葉に唖然とする客席を想像することは、大きな喜びだったのではないか。『レクイエム』に取り掛かるとき、三善晃は今こそ自分は彼らの仲間であると高揚したのではないか、この作品によって再び彼らの仲間であることを証明し、今度こそ死ぬことができる、そのように考えていたのではないだろうかと、想像する。

死者たちの仲間である、ということは、生きている人たちの仲間でない、ということになる。だから、この曲はそもそも聴く人と対立する。少なくとも「Ⅰ」の部分は、聴き手に向けた悪意が一貫していると感じられる。

実際に着手した中で、目論見が変化していったのだろう。それは、『縄文土偶』に載せられた「未分化の原点で」にあるように表現として分化される必要のためかも知れない。また、死者たちの「たち」でない点が三善晃の意図をはみ出したのかも知れない。『NEW COMPOSER vol.13』で三枝木宏行氏が詳しい解説をしているが、残された人の嘆きや戦後の子供の詩にまで扱うテキストが広げられていく。録音を重ねる部分はこの点と関係していて、「Ⅱ」の部分では戦死者の言葉と生きている者の声が重ねられる。ここで興味深いのは、録音の再生が生きている側の言葉であることで、合唱は死んだ者の声と位置付けられている。「Ⅲ」での録音部分は合唱と同じ内容がしばらく遅れて再生されるが、この部分についてはまだ考えている。例えば今生きている人たちもいずれ火に焼かれて死ぬであろう、という話を貼り付けることもできそうだがそれほど魅力を感じない。

話が戻るが、死者の仲間である、生きている人たちの仲間でない、というのも実際には生きた人との関わりの中から生まれてくる感覚であって、であれば先行するのは生きている人たちの仲間でないという方だろう。

私は、だまされた、と思った。(「日常の鎖」)

根元にあるのはこれではないか。戦時と戦後の転換に対する不信が、現に生きている人々への不信になり、死者へと心を寄せることになった。その果てに、死者たちと同一化しようとした『レクイエム』は、それが書ける、書き上げられる、ということによって、自身を死者たちと切り分けてしまったのだろう。