『響紋』の後

『響紋』は1984年に初演されたのだが、同じ年に『田園に死す』が、次の年に『三つの夜想』が作曲されている。またその次の年には『三つの時刻』の復元版が初演となっている。

この3曲をことさらに取り上げるのは、これらが三善晃自身の過去への振り返りとなっているためだ。『田園に死す』では楽譜の前書きに書かれなかったモノオペラについて触れられ、『三つの時刻』はそれ自体が1963年の作品の復元であり、『三つの夜想』と『三つの抒情』のつながりは言うまでもない。

この時期になぜこうした振り返りがなされたのかといえばやはり『響紋』の完成と関わるのだろうが、それも含めて50歳の節目のような意識があったのではないだろうか。

先に挙げた3曲だが、どれもが自殺、若くして死ぬことと関わる。三善晃自身については、若さの年限が29歳であり、そのために30歳になる前に自殺しようとした。若さの年限とはまた死者の仲間であることの表明でもあり、『三つの時刻』はその失敗を歌っている。結果、生きてしまった自分がどうすれば再び死者の仲間となれるかが30代の問題となる。

それに足りる仕事を成すこと、が答えとなる。「仕事」と言っても当然世の中の仕事のことではない。死者の仲間として世に現すべき何か、これを書けば死ねる、再び死者たちに仲間として受け入れてもらえるというようなもの。30代の終わりに『レクイエム』を書いたのは、新たな年限を40歳になる前、と定めたからではないか。

『レクイエム』の作曲を通じて、もう死者の仲間ではあり得ないという自覚にいたったことが「弧の墜つるところ」で書かれている。だから、死者の仲間として書いた自分の作品に答えを返すことが次の10年の課題になったのだろう。が、もはや死ぬことが意味を持たないこと、また課題そのものの困難さのために10年の内での解決に至らず、ずれ込んで1984年、「三部作」としての決着となったのではないだろうか。

「三部作」の完成によって、自殺の問題がようやくそれ自体として振り返ることのできるものとなった。そのためにこれら3曲は作曲または復元されたのだろう。この短い時期に書かれた作品のもつ痛切さもこのためのように思われる。