『田園に死す』について 阿部亮太郎氏のツイート

だいぶ前のことになるが、作曲家の阿部亮太郎氏が授業で『田園に死す』を取り上げているとツイッターに書いていた。

続くツイートの中で、音型の共通についての指摘がある。

こういった点は素人的にはなかなか見通せないところなのでありがたい。

これらの指摘を元にして何か言えないか、という前に、曲の構成を簡単に確認しておく。テキストは5つの短歌から成っており、曲はその1首目と4首目の後に、合唱のロングトーンを伴う2台ピアノの間奏が挟まる。上のツイートの「人生以前」は1首目、「いまだ首吊らざりし」は2首目、「くくられて(縊られて)」は3首目、「花カンナの」は4首目に当たり、間奏は1首目と4首目をそれぞれ受けて演奏される。2首目、3首目、4首目は続けて歌われ、2首目の部分は時間的には長く、3首目は短く激しい。

阿部氏の指摘に戻ると、1点目では1首目後の間奏と4首目、2点目は4首目後の間奏と1首目の対応が示されている。この交差には、1首目と4首目の意味を重ね合わせたい意図があるだろう。ついでになるが、4首目の後の間奏では第2ピアノが下降音型から低音の和音を鳴らすパターンが現れるが、これは「赤のしたたる」の視覚的な表現と思われ、するとこの部分も1首目と4首目の重ね合わせ、あるいは1首目を4首目の時点から解釈し直すという意味がある。では、その1首目と4首目はそれぞれ何を言っているか。

1首目、「人生以前の日」というのだが、奇妙な内容になっている。雲を呼んでおきながら、実際に雲が広がればそれは恐ろしい。欲求自体が齟齬を含み込んでいる。「人生以前」にはその意味を理解しないために穏やかな音楽となっているが、それが人生への予兆であったという読み解きが、4首目の音型を含む間奏により表され、事後的に認識される。4首目は曲中では2首目と3首目を受けた総括となるが、死を伴うような残酷な事態があり、そのために自分の生まれたことまでが忌まわしい、それほどまでにその事態が、自分が自分として生まれて生きたことそのものの帰結である、ということになるだろう。その後の間奏は「人生以前の日」自体が血に染まっていると表現する。ここでの「事態」については、自分の考えている「お話」として言うなら「自分も死ぬ準備をしていたのに、あいつだけが死んだ」ということで、2首目、3首目はそのことに当て込まれている。起きてみれば、そうなることは物心つくよりも以前に予兆のあることだった。それが、1首目と4首目の交わる意味になる。

3点目の指摘について。2首目の部分の音楽が、用意した縄にまだ首を吊らないことを責められる時間を示している、といったことを以前に書いたことがある。

tooth-o.hatenablog.com

三善晃の「30歳になりたくなかった」という話にもつながるのだが、責められる気がするのは年限があるためで、その年限とは死を意味付けるためのもので、それを過ぎてからの死は無意味なものとなる。5首目の部分は、死んでいないことを責められ続けながら、しかし今さら死んでも意味がないという時間を生き続けた先、むしろ責められるために帰郷する、死を準備した頃を振り返る、ということを描いている。