「いまだ首吊らざりし繩」

いまだ首吊らざりし繩たばねられ背後の壁に古びつつあり

三善晃の『歌集 田園に死す』での2首目の歌。気味悪い歌だが、三善晃自身の文脈からするならおそらく、背後の縄(を用意した時の自分の心情)が「まだ首を吊らないのか」と自分を責め続ける、ということだろう。

この部分の音楽だが、第1ピアノによる低音の無い序奏から、第2ピアノによる低音部の完全五度が加わり、さらに幾分動きのある音が加えられていく。合唱はその上でアルト→ソプラノ→アルトと一本の旋律が歌い継がれ、一通りのテキストが歌われた所で男声によるハミングの音が加わり、下三声による和音の継続の上でソプラノが再度第4句の言葉を歌う、という風になっている。総じて声部が積み重なっていくようになっており、それに伴って重苦しさも増していく。これは、行うべきことを行わないでいる自責に耐え続ける時間の積み重なりを表しているだろう。

この部分の旋律・歌詞を歌うのが女声のみ、という点は『三つの抒情』を参考にするべきかも知れない。音は当人の心情を描くが、歌はその意味を外部から告げる、という形のように思える。その上に、アルトとソプラノによる言葉の歌い分けの問題がある。「いまだ首吊らざりし繩たばねられ」をアルトが、続いて「背後の壁に古びつつ」とソプラノが歌い、アルトが「古びつつあり」と一部ソプラノとユニゾンで重なりながら歌う。この旋律全体はやや音が低めではあるが音域は広くなく、全部を2声のユニゾンで歌うことも技術的には難しいことがない。なので、この歌い分けはあえてそのように書いたことになる。これはおそらく、「縄を用意した自分」と「首を吊らない自分」に対応している。アルトは現に首を吊っていない今の自分を、ソプラノは首吊りのために縄を用意した自分を言い当てており、両方が生きている現在を責める。「古びつつ」で2声が重なるのは、その両面にとって時間の経過こそが許されないことだからだろう。