『地球へのバラード』の音取りについて

合唱をする人には当然だが、合唱のステージではピッチパイプなどを使って歌い出しの音を取る。ピアノ付きの曲で合唱が最初から歌い出す場合などはピアノを使う。指揮者が音叉で基準の音を取ってそこから開始の音を鳴らし、合唱はその音から歌い出す、といったこともある。

いずれも、複数の人間が基準もなく同じ音で歌い出すのは不可能なためにこうしたことをするのだが、これに不満を感じる向きもある。演奏ではない音が挟まることで没入感が削がれる場合はあり得るし、録音に慣れると余分に感じるということもあるかも知れない。

一方、オーケストラなどでは楽章間ははっきりと区切られ、チューニングが入ることもあるのだから、合唱でも気にしなくても良いとも考えられる。現場的には合唱団の能力と演出上の希望に従い、最初の音さえステージの裏で取り、表では一切音取りをしない場合から、音を出して合唱団がハミングなどで始めの音を確認してから歌い出す場合まで幅がある。そのハミングの音が合っていない、という場合さえあるというか経験がある。

ステージでの音取りをしない場合は、前の曲の最後の和音から次の曲の和音を拾うことになる。なので、同じ音で始まるというようにこの両者の関係が分かりやすければ容易になり、大きく異なったりどちらかが複雑な音である場合は難しく、あるいは不可能になる。

「演出上の希望」というのは、何曲かを続けて歌う場合にそれをどの程度連続的に、または個別に感じて欲しいかであったり、ピッチパイプを鳴らすこと自体に儀式的な印象が生じる場合や、あるいは単純に余計な音を挟みたくないというようなことで、拘る場合もそうでない場合もある。また、曲自体に"attacca"の指示があり、楽章間で間を取らないということもある。

このあたりを前提に、『地球へのバラード』について。この曲集は第1曲の『私が歌う理由』と第5曲『地球へのピクニック』がニ長調、第2曲『沈黙の名』と第3曲『鳥』がヘ長調となっており、調性の設計に意図があることが見て取れる。特に2曲目と3曲目は同じ調でテンポも緩いため、時に一つながりのように感じることがある。『鳥』と第4曲『夕暮』はヘ長調からホ長調と半音下の調になっており、調性としては遠いものの、旋律上は単に半音の下降なのでつながりは複雑ではない。この半音下降の調の設定には詩の解釈の中で意味があると考えており、その立場からは急緩緩緩急というテンポ設定と合わせ、2曲目から4曲目は一連のものと見られる。

『私が歌う理由』から『沈黙の名』の部分では♭三つ分の違いがあり、ヘ長調ヘ短調と見れば同主調ということになる。Aの音を引き継いでおり、この部分のつながりも明瞭と言えるだろう。5曲目の『地球へのバラード』は4分の2拍子と調性により『私が歌う理由』との対応がはっきりと見えるが、『夕暮』との接続は他の各曲の間と比べると難しいものになっている。『夕暮』の最後の和音が複雑であることが大きい。調としては変ホ長調からニ長調とまた半音の下降になるが、『鳥』から『夕暮』よりも見通しづらい。

これらの曲間を音を取らずにつなぐことができるか、と考えると、

  • 『私が歌う理由』から『沈黙の名』では、アルトは全曲のソプラノと同じ音で始められるので容易。半拍後から入る男声がそこから自分の音を取れるかによる。
  • 『沈黙の名』から『鳥』は和音があまり変わらないのでそれほど難しくない。第2ソプラノが多少問題があるか。
  • 『鳥』から『夕暮』はテノール、ソプラノがCからHへの半音の下降を取れれば良いので、これも困難はない。
  • 『夕暮』から『地球へのバラード』はやや難しい。ソプラノとアルトが『夕暮』の最後の和音の最上音の減8度、オクターブ下の半音上を取れるかになるが、第2ソプラノと第2アルトは難しい音を鳴らしている最中なので、ある程度慣れが必要だろう。

全体として、実力のある団体ならできなくもない、というところだろうか。では、それをするべきかどうか。これは全体を一体的に聴かせたいか、各曲に意識を向けて欲しいかによるだろう。好みでいうなら音取りなしでできるならそうして欲しい気がする。