三善晃の『空に小鳥がいなくなった日』について(2)

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前回引いた4行の前に、三善晃はこのように書いている。

谷川俊太郎さんの詩。

初めから、その詩語のなかにいた。

当初、組曲自体のタイトルを『空に小鳥がいなくなった日』としていたことから、ここで言っている「詩」も『空に小鳥がいなくなった日』の詩を指していると考えられる。その後の4行もこの詩のことを言っているだろう。

前回、世の中を退いていく人たちの願い、と書いたのだが、その人たちはそれまで世の中を作ってきた人たちであり、『空に小鳥がいなくなった日』の詩の批判はその人たちに、その一人としての三善晃に向けられる。詩に現れる「ヒト」という言い方は、他の4人の作曲家の扱いでは「自分がいなくなった」この自分自身を除いた人々を批判の対象として指すのだが、三善晃の視点からはまさに批判を受けるべき自分自身を示しており、でありながらその「自分」がいなくなった私や人々、という意味のこもったカナ書きとなる。

曲は、詩の言葉を反映して共通のリズムが繰り返す形になっている。奇妙とも見えるのが、「ヒトはたがいに」が冒頭「森にけものが」の再現となっていることで、4行単位の詩の作りのなかで冒頭は1行目、「ヒトはたがいに」は2行目と位置をずらしている。歌う言葉の意味を考えるならこれは、第1連以降に描かれる「ヒト」の在り方が「たがいにとても似ていた」という表現と見ることもできる。

ここでの音型の再現には、「たがいに」の「い」→「に」で3度跳躍になるという変化がある。この「森にけものが」と「ヒトはたがいに」の音型が、詩の第5連に対応する部分で「ヒトは知らずに」の歌詞に当てられる。細かく見ると、男声が「森にけものが」、女声に「ヒトはたがいに」の形で交互に歌う作りになっている。つまり曲の最後の部分はそれまでの全体を総括する意味がある。