『街路灯』のこと

今年はコンクールの課題曲になったこともあってか、『街路灯』の話題をいくつか見かける。そのこと自体は良いのだが、詩の言葉の現れる順番が、のような話が出てくるのは国語力的にいかがなものかという気持ちになる。「みんなすてよう/めぐりあわないために」の2行は確かに詩の中間にあるのだが、他の行と連が分けられていることや完全に平仮名で書かれていることによって他の部分と違った層にあり、例えば鍵括弧に入っているようなものとみられる。

曲は、大雑把にABACAのような形式と見ることができ、Aの部分でこの2行が、Bにその前の3行、Cに後ろの5行が歌われる。この形式も詩の作りを反映しているわけだが、改めて思い返せば自分も曲から翻って詩の構成を理解したように思うので、上に書いたような気持ちも自分に跳ね返ってくることにはなる。問題は「みんなすてよう/めぐりあわないために」のところで、「めぐりあう」という言葉に漠然と良いことのような印象があるために、この2行に戸惑い、詩も曲も捉えづらくなる。

「めぐりあわない」というのは極端に言えば生きないということで、世界、あるいは自分の生を拒むという意味合いになる。つまり「みんなすてよう」の「みんな」は「世界」や「生」を示す。「めぐりあわない」とは例えば運命と、であるとか、人生と、あるいは罪と、というように言えるだろう。「こたえのない問い」は、言ってしまえば「生きなければならないのか」ということだろう。

詩と曲は、そのように言う心情を内と外、あるいは過去と現在の視点から描く。三善晃が「多量の血が流れ出ているにちがいない北岡さんの内想」というのはここにある乖離を言っているのだろう。