林光の『空に小鳥がいなくなった日』

個人的には『空に小鳥がいなくなった日』と言えば三善晃の『五つの願い』なのだが、『五つの願い』には単純には肯定し難い印象があり、またその中の『空に小鳥がいなくなった日』については何となく捉えづらい、率直に言えばよく分からない、という感じがあった。近年この詩による合唱曲がよく書かれている印象があり、聴き比べてみるかと思い検索していたところ、林光がこの詩で作曲し、NHKの「みんなのうた」で放送されていたことを知った。

空に小鳥がいなくなった日 | NHK みんなのうた

放送は1972年の6月から7月とあるので半世紀前の曲ということになる。この曲を別の経路で聴くことができたが、それにより色々と納得のいくことがあった。

この曲において『空に小鳥がいなくなった日』の詩が言うのは、破綻の兆候が現れているのに気付かない人々、ということであり、その裏にはそれらを見る自分、という視点がある。むしろこの「自分」のあることが前段の意味を明確にする。

これは、元々一人の歌手により歌われる曲であるためということが大きい。このために曲は世の中対個人の図式になり、詩は個人の主張の形で成立する。合唱曲の場合、この図を世の中対私達とすれば「私達」が世の中より正しいとする理由がなく主張が弱くなる。そこで「私達」をぼかすことになり、詩の内容も曖昧になる。合唱でのこの詩の人気もその曖昧さが理由のようにも思える。

先に書いた通りこの曲は1972年の放送らしく、この詩を収めた詩集も1974年頃の出版のようなので、詩のそもそもの初出がこの曲だったのではないかと思う。そうだったなら詩は上記のように捉えられるはずのものと言えそうではある。また、それを抜きにしても上の読み方は「ヒト」のカナ書きや「ヒトは未来を信じつづけた」という行の意味がはっきりするという意味で、まずまず妥当なものではないかと思う。

そのように読んだ場合だが、世の過ちに気付く先覚者たる私、という話にどうしても近づいてしまい、現代的にはそのようなスタンスには乗りづらい所がある。これは世の中の在り方に責任を持たない視点であり、1972年の「みんなのうた」でしか成り立たなかったあり方だったと感じる。