『空に小鳥がいなくなった日』3曲

平吉毅州松下耕信長貴富による『空に小鳥がいなくなった日』を聴いてみた。

詩について

『空に小鳥がいなくなった日』の詩を概観すると、人と世の中への悲観的な視線に対して、外形的には使われる言葉は平易であり音としても柔らかい。このことが、詩に抽象性や寓話的な雰囲気を与えている。内容と使われる言葉のこうした性質を、3つの曲はそれぞれの仕方で表現している。

平吉毅州の作品

『合唱組曲 空に小鳥がいなくなった日』の1曲目。簡単に調べたところでは1975年の作品らしく、林光の曲からそれほど経たない時期に作曲されているようだ。

ピアノが滅びを暗示するような厳しい音を鳴らし、合唱はそれに対する情緒的な注釈という印象がある。「街に」が「森に」「海に」に並置され、続く「ヒトに」が中核とされる。「空に小鳥が~」から冒頭の再現になるが、そこに入ってくるピアノの単調な動きは世界の終わりが忍び寄るイメージだろう。

大まかには、ピアノの表現は詩の内容に対応し、合唱の情緒性は詩の言葉遣いへの解釈となっている。ここでは既定の未来としての人類滅亡があり、その前段として公害のような問題がある、という想定になる。それが既定であるというところに無力感があり、合唱の寂しげな表情に結び付いている。

松下耕の作品

混声合唱とピアノのための ひとりひとりが出会うとき』の2曲目。作曲者のウェブサイトでは2014年の作とのこと。

全体的に無彩色のような調子の音楽となっており、破滅の表情としては平吉毅州よりも解像度が高い印象がある。言葉の柔らかさや寓話めいた雰囲気が、童謡めいたリズムパターンやピアノに時折混じるとぼけた表情によって表されている。「ヒトに」の部分に重心が置かれるのは詩の作りからも必然だが、松下の曲ではここに戦争のイメージが重ねられているように感じる。「空に」から冒頭を回想し、単純な動きのピアノが重なる点は平吉毅州と類似の配置だが、そこに空虚でやや感傷的な表情が入り込む。

詩の内容と外形という見方から言えば、松下耕の作品は平吉よりも内容の側に傾いていると見られる。とはいえ、破滅に対して感傷を配置する纏め方も含め、松下と平吉の作品には類似する面も多いと感じた。

信長貴富の作品

混声合唱のための Anthology』の4曲目。信長貴富のファンが作成したサイトによると2016年の作品らしい。

信長の作品は松下よりもさらに内容の側に振り切れている。心情的なものは除かれ、厳しい音で貫かれている。「森に」から「ヒトに」までを曲の前半で扱い、「空に」の部分が後半となる、大胆なテキストの配分となっている。その後半部分(滅んでいくものへの葬送のようなものと感じられる)は無伴奏で始まるが、差し挟まれるピアノが穏やかな解釈を許さない。

言葉のもつ柔らかさを顧みないことにより、複雑でありながら明晰な音楽となっている。テキストと曲の関係に対するこうした大胆な見切り方は信長の強みではあるだろう。

 

これらの3曲は、表現については多様であるものの、滅亡の未来が音にされ、それが現在の世の中への批判になる、という形をとっている。実際には批判に主眼があり、その正当化として滅亡が描かれる。

これは冷戦の時期に批判をイデオロギー的な対立に落とし込まれないように成立させるための方法だったと思われるが、そうした現実からの要請がなくなった結果、そのスタンスだけが残り、さらに先鋭化しているように見える。破滅の描像として平吉の作品よりも松下、信長の方がより徹底的であるのは、自分には奇妙な歪みと感じられる。