『絶え間なく流れてゆく』と原民喜『鎮魂歌』(3)

 

tooth-o.hatenablog.com

 

tooth-o.hatenablog.com

「僕」は妻を亡くしてから、現実に生活する人々の背後に断末魔を、「救いはないのかという嘆き」を感じ取るようになり、原爆はそこから現実の生活を剥ぎ取った。そうした「剥ぎとられた世界」の体験から、現実であったはずの事物が「美しい念想」としてしか感じ取られなくなるが、「嘆き」を手掛かりに現実を新しい意味として取り戻す。「僕」の認識の構図はざっくりとこのようなものだった。

ここにある要素が『絶え間なく流れてゆく』では、「嘆き」が "Kyrie eleison" によって置き換えられ、その体感(「息をするのもひだるいような、このふらふらの空間」)は信長の作り出した驚くような音響により聴き手にも体感として伝えられる。「現実」であるところの「美しい念想」は「花の幻」の詩句に移し替えられるが、この言葉に与えられる和音は最初の部分では最も恐ろしいものを意識の上で隠蔽するように不穏な響きを与えられ、一方終わりの部分では「向こう側」への鎮魂歌としての現実を示す柔らかい音となっている。

こうして見ると、この曲が『鎮魂歌』の内容を丁寧に写し取り、その中にある体感と心理を聴き手に伝えようとする作品であることが分かってくる。こうした面について、『絶え間なく流れてゆく』は優れた作品であるということは確かなことだと思える。

 

最後に、自分がこの曲の何に引っかかっているのかを書いてみる。

”Kyrie eleison” を考える。これが、取り上げられた原民喜の作品に直接出てこない言葉であることや、信仰との関係で出てきている訳でないことは、それ自体問題とすることもあり得るがここでは触れない。だがそれでも、なぜ ”Kyrie eleison” なのか、ということは思う。これは新実徳英の『祈りの虹』はなぜ "Ave Maria" なのかというのと同質で、人の想像を超えた災禍と罪、という感覚を表すのに日本ではキリスト教的な観念が流用されがちであるということだろう。

とりあえず「人の想像を超えた災禍と罪」という書き方をしたが、そうしたものを表現することの意味、あるいは働きは何か。自分は、これは脅迫、「原爆はこんなに酷くて悪いからいけません」ということだろうと考える。曲は語り手の主観を通じて、その見た光景の異様さ、恐ろしさを描き、そこから生まれる願い、祈りへとつなぐわけだが、そのような作り自体が「恐ろしさ」に依っている。

林光の『原爆小景』ははっきり言えば演奏する側も聴く側も恐ろしい光景による脅迫の意図が明らかであり、新実徳英もそのつもりと見られる。が、こうした行き方は現在、もう無効なのではないだろうか。

『祈りの虹』は

合唱曲 作品一覧 | 新実徳英

によれば1984年の作品とのこと。『原爆小景』は1958年に『水ヲ下サイ』、1971年に『日ノ暮レチカク』『夜』が書かれたが、2001年に『永遠のみどり』で店じまいした。

原爆の恐ろしさは変わらないとしても、脅迫はむしろ国家が核兵器を所持するべき根拠となっている面があるだろう。そのような現在に、『絶え間なく流れてゆく』は恐ろしさを訴えることで何かを変え得るというような20世紀的な態度へと歌う者や聴く者を誘導するように感じられる。