『虹とリンゴ』の第2曲『夏』の詩の話だが、この詩に現れる兵器の印象が1945年の水準ではないのではないか、というのが何となく引っかかっていた。このあたり全く不案内であり知りたいという気もなかったので放置していた。なので、思い付きに過ぎないことではあるのだが、一応書いておこうと思う。
『詩篇』の「花いちもんめ」について、以前少し触れたことがある。
「花いちもんめ」は宗左近が生き延びた世界と引き換えに、友人たちの命を支払ってしまったという意味であり、対する「風いちもんめ」「波いちもんめ」等の奇怪な詩句は、ならば自身の生きられた世界を引き渡すことで彼らを取り戻せないか、という願いを表している。
つまり、宗左近の地球は『縄文』で既に捧げられてしまっている、と考えられる。
『夏』の地球はその後の、もはや宗左近のものではない地球がまた誰かによって捧げものにされる光景かも知れない。詩集『おお季節』の出版は1988年、終わり近くではあるが冷戦の頃、つまりは核戦争による人類滅亡の可能性が語られ続けていた時期でもある。
「生きているのにもう焦げている死体」というのはまず宗左近自身のありようであり、新たな戦争がまた自分と同じような者を生み出し、地球を捧げるようになる、そのような可能性を詩は蝉の姿に見ている。