三善晃の1962年の作品

CD『地球の詩』は三善晃の60歳を記念した栗友会のコンサートのライブ録音で、日本合唱曲全集に採られたのもこの音源ではないかと思う。ブックレットに載せられた三善晃の文章には、次のようにある。

生まれた1933年から60年経ちましたが

その途中 30歳になる直前に もういいよ と思ったことがあって

そのときは たくさんの音楽を書きました

一年間に 弦楽四重奏曲 ピアノ協奏曲 歌曲集二つ 室内楽二つ

それに 合唱曲二つ

合唱曲は《三つの抒情》 と 《嫁ぐ娘に》

それが合唱の書き始め ちょうど 60年の半分が 過ぎる頃だったわけです

1962年がこの「30歳になる直前」に当たる。この時期については他にも作曲者自身の文章が

1962年は29歳になって「アト」がないと感じていたための多作の年になった。(中略)この1962年の初春、私は家出した。と言うと大袈裟だが、要するに、黙って家を出て、残雪の軽井沢に行った。ここで、「アト」を早めに断ち切るつもりだった。

(CD『さんもんめのみよしあきらさん』ブックレット『嫁ぐ娘に』紹介文 原文は2004年コーロカロス公演パンフレット)

また

何度も書いたことだがこの組曲は1962年に書いた。

私が30歳になる前年のことで、この年はたくさんの曲を書いた。

私は当時、自分が30歳になる実感が持てなかった。

正確に言えば、なりたくなかった。

そのため、結果としてたくさんの曲を書くことになったのだが、

そのどれをも「これが最後の曲」と思いながら、

曲ごとに「愛しいものへの想い」を燃焼させていた。

(CD『かなしみについて』ブックレット「一筋の情感」)

とある。ここに挙げたのは自分が知る分だけなのだが、3つとも栗友会のために書かれており、栗山文昭と栗友会へのが伺える。また合唱団が作曲家の文章を求めることや、『三つの抒情』『嫁ぐ娘に』がたびたび取り上げられる曲であることも関係するだろう。

『地球の詩』の引用部にある曲目だが、まずは『弦楽四重奏曲第1番』『ピアノ協奏曲』が挙げられ、歌曲集は『白く』と『聖三稜玻璃』、室内楽とされるのはマリンバのための『会話』と、『金の魚の話』だろう。

 

この時期のことを持ち出したのは、久しぶりに『遠方より無へ』を取り出したところで次の文章が目に入ったためだった。

五月になった。どこか、北のほうでは、アスパラガスを折る音がしている。そんな五月が本当にやってくるだろうと、冬のあいだ、私は心から疑っていた。半年先の季節を、どうして平静に待っていられよう。だが、その疑心は無駄になって今、窓外の緑のあちこちに引っかかって揺れている、古い蜘蛛の巣みたいに。なぜ、私は平気でいるのだろう。

この文章は「ヤマハニュース」1963年7月号~12月号の初出とされる、「五月から十一月まで(一九六三年)」というセクションの中の「五月二十一日」の部分にある。気になったのは、まずこれが1963年の文章であり、内容は1962年についてのものであること。次に、強調される「五月」という時期が、『抒情小曲集』で扱われ、『遠方より無へ』でも冒頭部分で取り上げられる萩原朔太郎の詩を想像させること。そして、「どこか、きたのほうでは、アスパラガスを折る音がしている」という言葉が『白く』の左川ちかの詩に結び付くことだった。

左川ちかの詩に不思議な絶望がある。

 失った声 向ふ側の音 見えない花

 そして もう近くに居ない夏

(『遠方より無へ』『白く』の解説文)

この4つは『白く』のそれぞれの詩に含まれるが、上の文章と併せて読むことでいくらか分かるように感じられた。山鳩の鳴く季節、ゼンマイのほぐれる季節が2度とやってこない、「夏はもう近くにはゐなかつた」というときの夏も過ぎた夏を最後にもう来ることがないと、『白く』の作曲時期には思っていたのだろう。